見出し画像

孤独を楽しめる幸福条件

孤独を楽しめるのが私の特技です。

一人で外出、飲食、趣味、なんでも楽しめます。没頭する性格なので、孤独や寂しさを意識せずに群衆に紛れることも苦になりません。

孤独を楽しめるのは、自分自身が本当は孤独じゃないからなのだろうと、最近改めて感じています。

たとえば今は同居している妻がいてくれるからこそ、根本的な安心感が前提にあり、一人の時間を楽しめるのでしょう。その前は、実家の家族がその役割を担ってくれていたのだと思います。

なんだかんだ言っても、誰かが居場所を用意していてくれており、そこに帰ることができると確信しているから、一人の時間を安心して過ごせるし、その価値を十分に味わう事ができるのだと思います。

孤独を楽しめることのメリットはいくつもあり、自分自身と対話する時間が増えたり、一人でいる分、目の前のことに集中して考えたり、感じたりすることができるので、精神を安定させる効果も大きいと思います。

環境が性格を形成する要因はとても大きいですね。私の精神が安定している理由の1つに、他人を羨ましがったり嫉妬したりしないというものがあります。これも、一人で色々なことに夢中になり、その満足や喜怒哀楽を自分の中だけで自己完結できることによるものです。他人がどう反応しようが、他人が認めるか否かはどうでもよく、自分が面白い、満足だと思えば、それでいいやという思考です。だからあらゆる行動の結果を他者を通して評価することがなく、比べることもありません。

悪く言えば向上心がないのかもしれませんが、これまで、自分の性格に合った人生を一番生きているのは自分自身であり、他の誰になったとしても、今より幸福度が上がるとは思えないという考えを一貫して持っています。

一見、自分より幸福度が高いと思われる人でも、見えないところで苦悩があると思いますし、社会的地位や周囲の評価が高い人には、他人の目線に晒されながらそれに迎合し続けなければならないという意味で、大きな苦労があると思っています。

こういう思考なので、人と自分を比べて一喜一憂したり、それで腹を立てたり悲観したりすることもありません。学校に所属していた時代は一時的にそのような感情に近づくこともありましたが、学生時代を終え、就労すると、そういう複雑な欲求ではなく、ただ純粋に今ある自分の時間や環境を楽しみたいとか、その価値を最大化したいという気持ちが強まってきて、余計なことを考える余裕がなくなりました。

若い時代、特に義務教育・学生時代は、否応なしに周囲と自分を比較し、相対価値の中でしか自分自身を測ることのできない環境に身をおくこととなるので、そういう勝ち負け意識に囚われやすくなりますよね。その欲求を叶えるために、無駄な努力や時間の浪費を随分としてしまったなと反省しています。

その時間を趣味や余暇や自分の周りにあるものを大切にすることにすべて使っていたら、人生は計り知れないくらい今より充実していただろうなと思いますし、自由の極みであった就労前の人生を十分に楽しまないまま、時間的猶予を最大限活用しないまま、それを手放してしまったなと感じます。

こうした私の変化をを向上心の放棄や無関心の始まりだと指摘する人もいますが、連日、他人と自分を比較して一喜一憂したり、人を打ち負かしたい欲求に駆られてばかりの人生よりは良いかなと、考えています。

DINKsを続ける上で、周囲の批判とどう向き合うかが一つの大きな課題となるわけですが、周囲の意見や批判以上に大事にできる自分自身の価値基準があれば、どうでもいいやと割り切れるようになれるのかなと思います。そのためには、世間や社会よりも大事な自己満足・自己完結の対象を見つけること、これが幸せへの最短経路かもしれません。

マジョリティーに迎合できない人間が受ける仕打ちは、時に残酷なものですし、私もこの人生を選択することで仲間や周りの人間の信頼を失うことがありました。それを気にすることもありましたが、結局は、そこで私に批判を向けてくる人と上手く付き合い続けたとしても、どこかでボロが出て同じ結果になったのだと思いますし、常識や他者の期待に応えることによって維持される関係など、時限爆弾のようなものじゃないでしょうか。どうせ破壊されるのであれば、早々に破壊された方が、再生のために多くの余生を使うことができますから、いっそのこと、脆いものは壊してしまった方が自分を楽にするんじゃないかなと考えています。

嫉妬や比較の源泉は学校教育にあると強く感じてきました。二度と関わりたくない世界です。子供をほしくなくなった原因の代表格、学校。保護者として、間接的にも関わりたくないし、自分の大切な家族を治外法権の閉鎖空間に閉じ込めて人生の可能性を狭める画一教育を強制することに吐き気がするような感覚、教員や子供の悍ましさを嫌というほど見せつけられた未成年時代だからこそ、ここをルーツにするあらゆる人間性や感情と決別したいと願ってきました。

嫉妬や比較と決別するためには自分自身と向き合うしかなく、自分自身が何者かを認めることが不可欠です。理想の自分やあるべき自分ではなく、本当に幸福だと思える瞬間の自分の顔・感情・体調を全力で想像し、ぼんやりした形でもいいから、答えが出るまで考え続け、答えが出たら、それを叶えるために不要なものをそぎ落とす断捨離を地道に繰り返すことで、そんな自分に近づけるような気がしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?