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お金で買えない夫婦の幸せ

夏季休暇、お盆休み、平日のガラガラの通勤電車。暦通りに休暇や休日を消化しない私達にとって、一般社会が大型連休にある時や、年末年始は、普通通りに生活する自分たちの空間に日常離れした余白が生まれる。もちろん、世間は休日なので、混んでいるところにいけば混雑に遭遇するのだが、その選択をしない限り、変な言い方ではあるが、ゴーストタウンのような生活空間を味わうことができる。自分が子供だった頃は、親がお盆休みの時に、満員の新幹線で祖父母の家に遊びに行っていた。祖父母はもういないし、帰る実家は地方にはないし、学校に通う子供も親戚内にはいないので、お盆休みに「混んでいる新幹線」に乗ることも、もうないのだろう。

新型コロナウイルスがもたらした在宅勤務。いかに労働に無駄が多いかがわかったし、人間は不要な対面コミュニケーションを強いられ、それが多くのストレスを生んでいること、文字のやりとりであれば負担が小さくなることを感じた。逆に、電話が苦痛になった。言葉に感情が乗っかる感じ、即答しなければならない感じ、急かされている感じ、そんなものはないとしても、なんだか、自動車を運転する際に合流車線でスムーズに割り込まなければならないような感覚を覚える。そういう理由で固定電話を敬遠するようになる。自宅にも固定電話がない。携帯電話を使うのみで、携帯電話での電話も、よほど困ってすぐに問い合わせするような場面でしか使わない。固定電話で長電話をしたりすることも、もうないのだろう。

平日の日中に男性が住宅地を歩く光景が当たり前になっている。というか、大人が平日に街にいるという光景が当たり前になっている。労働者、主婦、学生など、カテゴライズされた人間のまとまりによって形作られていた街が、個人の往来と集合離散により形作られたものに姿を変えていくことを強く感じる。労働や経済や物質だけが幸福を支配していた数々の街に、ようやく「普通の生活」が戻ってきたといえるかもしれない。だとすれば、普通じゃない世界を強いられていたのは、いったい何十年だったのだろうか。特定のカテゴリーの人間が同じように同じことをして集まるだけの街を見ることも、もうないのだろう。

新型コロナウイルス感染症は、感染症としては多くの悲劇を生んだが、公衆衛生の普及や、数々の神話からの解放という意味で、自分たちの生活を自由にしたようにも思える。消費することを煽られたり、SNSで他人の生活が羨ましいと垂直的評価に一喜一憂する潮流が支配的な昨今、物理的に「暇」になることで、自分自身を見つめ直す時間を、否応なしに獲得することで、多かれ少なかれ「その人」の本来の姿が見えて来たんじゃないだろうかと思う。その価値に気づいていない人は、暇や退屈を不幸と嘆いたりするし、その価値に気づいた人は、これを一つの人生の転換点にするかもしれない。最初からこの生活が中心の人は、特に何も感じないかもしれない。

出社しないとどういう一日になるだろうか。

  • まず、通勤時間がなくなる。朝起きて、なんだかんだで始業時間を迎えるまでに2時間弱は時間を要する。これを睡眠と朝の洗濯に充てるだけで、生活が変わる。

  • 洗濯を朝できることで、夜間に物干しのための扇風機を稼働する必要がなくなり、部屋の乾燥を防止できる。

  • 朝食も、パンや昨夜のメニューの作り置きを食べればいいし、自宅であればシリアルに牛乳をかけて食べてもいい。そういう「ほぼ0円に近い」ご飯を積極的に導入できる。洗い物の場所取りやごみ捨ての心配もない。デスクで周りに気を遣いながら、無駄に高いコンビニのご飯を食べる必要もない。この時点で、交通費と食費で1000円は浮いている。これを20日繰り返すと2万円。馬鹿にならない。

  • 妻がオンライン英会話を始めるのが声でわかる。海外は夜、こちらは朝、この時間差が面白い。私もメールチェックなどを済ませて、個人の生産活動に取り掛かる。会社の仕事と家の仕事を両立できるのが良い。会社でも物理的にマルチタスクは可能だけれど、堂々と会社と関係ないことをしてはいけない無駄な雰囲気があるので、並走には在宅環境が不可欠だ。

  • 洗濯物が終わり、掃除機をかける。ついでにキッチン周辺の汚れもきれいに掃除しておく。冷蔵庫内の食材をチェック。昼休憩時間に買い物に行くので、事前に買い物のイメージをしておき、夕食のレシピを考える。

  • 届いたメールを適当に処理する。口頭での打ち合わせを文字ベースにすることで、日々のやりとりやグループウェアのメッセージがそのまま引継書になる。いつ辞めても困らない仕事ができている。効率が上がっている。

  • 固定電話に出るために出社する文化がある。ならば固定電話を廃止すればいいと思うが、そうはしない。メールやチャットがある時代に電話してくる人には、クレーマーが多い。そういう人をお客様として収益にすることも、まだまだ経済活動として重要なものらしい。

  • 乾燥機が終わり、仕事も落ち着いたので、少しだけ動画編集を進める。今は勉強習慣なので、妻にオススメされた読書をする。本を読む習慣、とても幸せだ。たとえば、最近の激しい雷雨や地震、気象や地震について勉強してみたいと思い、図書館で本を見る。探していると、どんどん気になる本が出てくる。好奇心の連鎖反応とそれを叶える知的財産の数々。一生かけても読み切れない本、これが0円で楽しめる。

  • 昼前になり、noteの更新をする。こういうのができるのも出社しない特権だ。出社時にも考えたことはノートアプリでまとめているが、堂々と取り組めるのがいい。noteも本と同じで、たくさんの人が書いた「財産」を無限に読むことができる。読んで、感じて、考えて…面白さの極みだ。一生かけても読み切れないのだろう。

  • 昼休憩になったので、電車か徒歩でスーパーへ。冷蔵庫の在庫と今夜の献立に沿って、3日分の食材を購入する。3日分で4千円から5千円程度。料理が趣味みたいなものなのと、栄養バランスにこだわってしまうので、食費は多め。エンゲル係数が高い。月に食費だけで6万円くらい使っていると思う。他に使わないので、ここが一番の贅沢かもしれない。食は生産活動、料理はものづくりなので、ここは仕方がない。幸福税として支出している。

  • 午後、妻が帰宅するので、素麺を用意する。猛暑の中、妻がシャワーを浴びてリビングで涼んでいるのを見ながら、素麺をザルで水切り、鰹出汁が利いたスープに氷と一緒に浮かべる。お昼の素麺も食費は薬味のミョウガが100円なだけで、食材ストックを0円カウントすれば、実質ほとんどタダに近い。

  • ゼラチンを買ってきたので、レモン水やオレンジジュースの残りでゼリーを作っておく。数時間冷蔵庫に入れれば冷たいゼリーが完成。

  • 午後も同じように勉強や会社の仕事、動画編集、妻との会話で時間が過ぎる。暑さは続き、急に雨が降ってきて涼しくなることもある。夕方になっても学生や会社員の姿は見られない。お盆休みであることを感じる。

  • 日が傾いてきたので、早めに炊飯開始。今日はグリルを使って焼き魚、鮭を割引でゲットしたので、和食にする。自炊にすればサラダ、焼き魚、ご飯、味噌汁(野菜は冷凍ストック)で2人分で1000円未満。お酒を1缶ずつ飲んでも、1000円前後。

  • 夕飯を18時過ぎに食べて、片付け、皿洗い、シンク周りの掃除、ゴミ出し、お風呂掃除してお湯のスイッチオン。

  • お風呂を入れている間に、夫婦で近くの薬局に日用品の買い物に出る。往復20分程度の散歩。帰り道、ぼーっと歩いていると、この時間がいかに幸せかを噛みしめる。

  • お風呂に入ってサッパリして、ドライヤーで髪を乾かして、午後に作っておいたゼリーを食べる。低カロリーで夜食べてもOK。

  • 夫婦で作業や勉強をしたり、雑談したり、ヨガ、ストレッチをしたりして、あっという間に21時。翌朝もなんだかんだ5時台に起きるので、早めに就寝スタイルに移行。横になる。

このように1日が終わる。

出社しないことで得られるものが多すぎる一方、先日の出社の際には、自分ひとりでできる業務だけを黙々と片付けるだけの8時間を過ごし、誰とも会話せず退社時間を迎えた。自宅にいてもまったく同じことができるのに、それを20km離れた場所にわざわざ移動して、可処分時間を減らしてやっているわけである。本当に人生がもったいない。こんなに暇を持て余し、時間を殺す行為はないと思う。せめてもの償いとして通勤中は勉強や読書をするようにしているけれど、それでも時間の総量が目減りする。

在宅勤務や休暇の日は、妻とたくさん話ができる他、外出することにより必要となる食事、交通費などの出費がなくなるので、ほとんど食費しかかからない。食費も、作り置きや残り物、まとめてつくることができるから、相当に生活費の節約になる。作業も、仕事をしながらも別のことが並行してできるので、普段夕方や夜に疲れて取り組むようなことを昼にゆっくりできる。その余裕が、新しい記事を見つけたり、何かアイデアを生み出すきっかけになったりする。そしてすべてが「幸せ」につながる「コストが掛からない」行為だったりする。結局、幸せを作るのはお金を使った消費ではなく、時間の余裕なんじゃないかということに気付かされるのである。

1円も使わなくても、家にあるご飯を食べて、家にある本を読んで、自分で動画やグラフィックを作って、妻と色々な話をして、それをまたテキストに残して…というのを繰り返すだけで、時間が無限にあっても足りないほど、充実した毎日を過ごすことができる。忙しいからお金を使ってしまうことを痛感する。

人が幸せに暮らせるお金の量はそれぞれだけれど、仮に労働しなくても人生が持続する安心感みたいなものが普遍性を帯びてくるとしたら、ベーシックインカムのように労働から完全に解放されたとしたら、怠惰などとは程遠い充実した生産的生活になりそうであるし、かつ、使うお金の量も減りそうである。

そう考えると、お金を消費するための労働に縛られているのかなとも思えてくる。一体、幸せの本質とは何なのか。今更だが、コロナ社会をきっかけに考えることができていることにも嬉しくなってしまう。

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