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DINKsと「こだわり」

先日の夫婦の会話。

「こだわり」が強い人って、関わるとつかれてしまうよね。

この数年の私達を取り巻く人間関係がこれに詰まっている。好き嫌いが激しい人、たとえば、感情が激しい人という意味ではなく、色々な色があってカラフルだねと思う場面で「私、紫嫌いなんだよね」って言っちゃう人が面倒だしシンドいよね。という話である。

同じように、みんなでたい焼きを楽しく食べている時に「たい焼きはつぶ餡派、こし餡よりつぶ餡」とドヤ顔で言うような人がいると、両方楽しみたい人は「面倒だな」と思うし、こういう人が「どっちが好き、美味しい」という主張や、その理由で議論しようとするモードに入ると、手に負えなくなる。

同じように、この地域・この国・この会社・この文化が好きだとか嫌いだとかいう「こだわり」は、大抵の場合、悪い空気をもたらす。

一体何がそうさせるのか。自分の中で、正解や正義、常識、マイルールが強すぎる人は、それを他人に強制する傾向があると思う。それはしばしば、度が過ぎた主観の暴走を招く。

同じように、ここ最近、夫婦で話した会話の一つが、昔の世代の人ほど、みんなで一つの方向を見て、一丸となることを望む傾向があるよね。という話。

昔の日本、戦前でも戦中でも戦後の高度成長でもいいし、現代の田舎でもいいし、学校でもいい。どこにでもあった「全体主義的思考」「個人が集団のために尽力するべき」という価値観は、根強く残っている。ブラック部活動、ブラック企業、カスハラ、村八分、なんでもそうだが、個人が全体のために不幸になることを受け入れてしまう事象はなくならない。

この全体主義的思考は「〇〇は正しい」「〇〇は素晴らしい」「〇〇は偉い」のだから「尽くすべき」「服従するべき」「期待に応えるべき」という考え方から発生していると想像するのは容易である。内発的よりも外発的動機がその人の選択と行動を方向づける場面が少なくない。

ここで考えたいのは、「その対象を尊重していること」と「その対象のために自己犠牲を払うこと」がイコールになるのかということだ。いいかえれば「その対象のために」と「自分を犠牲にして尽くす」ことがイコールになるのかどうかということである。

「尊敬する先生のために、過労死するほど部活を頑張りました」「自分を育ててくれた親のために、命令に従って親の望む学校や会社に進みました」というのが正しいかどうかということなのだ。

スケールを大きくすれば世界各地で起こっている戦争にも同じことが言える。「国を思うから国のために死ぬ」という考え方が、果たして本当に国の利益になっているのかどうか、ということなのである。

成果や結果ではなく「他人が自分を犠牲にしていること」を評価する人は多い。苦痛や代償を伴い尽力や献身性を向けることが、相手への誠意であり、場合によっては愛であるとさえ言う人もいる。そういう物語や作品も多い。

こういう時に安易に善悪を言うのは危険なので、自分の身近な場面に当てはめる。

たとえば、夫婦関係の場合。夫婦は共に相手に尽くすべきであるという価値観が偏重された場合、こんな場面が考えられる。私の妻は食べ物のアレルギーがあり、食べられないものが存在する。自己犠牲が美徳であるとすれば、「〇〇を食べられない人がいるんだから、一人で〇〇を食べるなんて冷徹だ。一緒に〇〇を食べることを我慢するべきである」ということになる。妻は私がこの選択をしたら、果たして喜ぶだろうか。

他の例を出すと、私が事故で車椅子生活になったとして「身体障害者の夫を留守番させて自分だけ海外旅行に行くのはおかしい!」と、友人と海外旅行に行く妻は責められてしまうのだろうか。それが罷り通るとき、私は嬉しいだろうか。

どちらの例も、答えはNOである。

前者であれば、我慢して食べないのではなく、料理を分けて作るとか、別の食材を使って工夫したレシピを作ればいいだけなのである。そのうえで「色々な料理を試行錯誤して作る機会をくれた妻にありがとう」と思えばいいだけなのである。

後者もそうだ。妻に海外に行ってもらい、動けない私がその映像を見て追体験するだけで、十分楽しめる。一緒になって家に籠もっていても、二人とも体が不自由になってしまう。

相手のために自分を犠牲にして、それで相手を尊重しているなんていうのは、傲慢の極みだろう。片思いの極みだろう。全体主義の中で語られる「尽くす」の正体が、本当の意味での「尽くす」とは対極にあるものであるということに、ほとんど気づかないまま、私達は群集心理から全体主義に走ってしまうのではないだろうか。

相手が望んでいないことを「これが求められている」と妄想し、顔も見たことのない怪物のような精神の集合体(世論、文化慣習、固定観念、イデオロギー)に突っ込んでいくことがあると思う。敬意を示すべき対象には感謝と思いやりを与えるべきであって、自己犠牲を示すことではない。

過剰な推し活をしている人が、追っかけ相手の行きつけの美容室に散髪代を「お布施」と言って置いていったという話を聞いた。これこそがまさに、献身の皮を被った異常な自己愛であり、全体主義的思考の誤った暴走を具現化してしまう心理なのだろうと、ゾッとしたのである。

単なる「こだわり」を「世界の常識」に置換するとき、その人の全能感が悪魔を生み出すのだろう。

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