DINKsが考える「男らしさ」
先日から、男らしさの社会学を読んで、色々なことを考えている。男性が「男らしさ」に縛られることで労働社会から解放されないこと、それにより、男女ともに不幸になっていることがよく理解できた。同時に、私にはなぜそういう「男らしさ」の縛りがないのだろうという疑問もわいてくる。
男性が男性であることの優位性を示すために、男性らしくない、女性のようだという表現を用いて他の男性を蔑む事象があることがわかった。たしかにそれは私の学校でもよく見られた。幼稚園や小学校では、男児が好む遊びや思考を持っていないと「女っぽい」と揶揄されることがあった。私はスポーツや戦いに関心がなかったので、男性的なものを好きになることがあまりなかったのだ。少年漫画も特に面白いと思ったことはない。唯一男性がはまるもので該当するのは乗り物だが、乗り物も、以前の記事に書いたように、時刻表を追いかけるような楽しみ方だったので、いわゆる「男の趣味」という感じではなかった。
「男らしくない」「女っぽい」と言われた時、私は特にそれを不快に思わなかった。なぜだかはわからないが、他人の意見に興味がない傲慢な子供だったのかもしれない。幼少期からそういう類の侮辱を「主観」としてスルーする傾向があったのだ。他人がどう思うかは自由だが、自分はそれを気にしないというような信念があった。もしかしたら、それが中学・高校・大学と続き、「らしさ」尺度で否定されることに抗う形で「男らしさ」に染まることをせずに生きてきた要因かもしれない。
男性だから○○だ!という思考にはほとんどならない。ほとんどというのは、たとえば外でお手洗いを使うとき、性別が男性だから、男性トイレに入ることくらいしか思いつかない。あとは同じように更衣室など男女で分かれているものだ。最近は更衣室は男女で分けずにすべて個室になっているらしい。割と好きな傾向だ。同性だからどこまでもプライベートがないという性別分割思考があまり得意ではない。性別から解放され、個別になっていくのかなと思いつつ、自分にとっては好都合だなと思う。
そんな価値観で、友達の中で浮いていたかなと思うけれど、どうだったのだろう。確かに、「男は○○」という人は友人にいた。けれども、そこまで意見衝突するようなこともないし、馬鹿にされることもなかった。多分、あまり心と心とぶつけ合わずに無難な関係を作っていたのかもしれない。
男らしさってなんだろう。大人になると、男は労働と世帯を持って云々みたいな話が出てくるが、これは残念なことに、時々耳にする。ただ、親からそういうことを言われたことが一度もない。どの性別だからどう生きるべきだと言っていたのはせいぜい祖母くらいであり、特にどう生きようが個人の自由だと言われてきた。家を継げとか親と同居しろとか、孫の顔が見たいと言われたこともないし、結婚を急かされたこともない。出世したいとも思わないし、同期よりも良い家や車を持ちたいとも思わない。
いったい何がそうさせたのだろう。例を挙げてもわからなくなる一方だ。結果的に良かったと思っているが、周りが30になって岐路に立った時、男性だから○○べきだ、のような思考に苦しんでいる人が確かに多いと感じる。特に仕事での自己実現ができることを幸福の必要条件にしている人が多いなと感じる。そんなに仕事での成功が男性にとって大事なのだろうか。よくわからない。他人に評価されることが、そんなに意味があることなのだろうか。
あとは、男は仕事、女は家庭のように、「○○は男性の仕事じゃない」とか、「女性に○○してほしい」という、他人に世話をさせたい欲求というのも、よくわからない。世話をさせることで自分が上だと思いたいのだろうか。女性よりも優位にいたいという思考も、正直よくわからない。それが男のプライドなのだろうか。妻の田舎では、妻が夫よりも良い車に乗ったり、収入が高いことを嫌う男性が多いようだ。そんなものは個人の自由だし、勝手だし、満足ならそれでいいじゃないかと思うわけだが、そこにも男性の「べき」があるようだ。
「男性」の「らしさ」や「べき」…一体その正体や価値はなんなのだろうか。文字では認識するものの、あまりに実感がなさ過ぎて、その存在を十分に理解できていないように思う。
DINKs夫にとっての「男らしさ」を無理やり定義するとすれば、男性である意味を見出すタイミングや役割。それはつまり、妻を大事にできること、妻を毎日笑顔にさせられることに尽きると思う。そして、幸せな居場所を作ることなんじゃないかと、今は考えている。それ以外「らしさ」なんて何もないし、なくていい。
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