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Instagramに別れを告げる

先日、約7年間メインとして利用してきたInstagramのアカウントを削除した。そのことが最も大きな意図的「変化」であったことは間違いないが、付け加えておくとその他サブとして起動させていた2つのアカウントに、Facebookの1アカウント、そしてX(旧Twitter)の2つのアカウントも同時期に続けて削除した。しかし、それらは正直あってもなくても大した影響はないという程度のものであった。

これまでも、ソーシャルメディアの弊害を訴える「意識高い系」に感化されたり、実際に負の側面を経験したりする過程において、距離を置こうとデバイスからのアンインストールやアカウント一時停止を実施することは何度かあった。しかし、結局アカウントが存在している限り、ふとした時に戻ってきて、再度負の側面に晒されることになるということを繰り返してきたのだ。
私がこの度、きっぱりとInstagramから手を引くことを決めた理由は、利用することでネガティブな感情を抱くことの方が、その反対よりも圧倒的に多いという単純なものである。これは、いわゆる「SNS疲れ」に該当するのだろうか。

もちろん、これまでもInstagramとの適切な距離感を模索することは何度もあった。例えば上記のように、デバイスから削除することによって、アプリを起動するまでに自分に面倒な手間をかけさせるというのも一つの方法である(逐一アプリを再インストールするか、操作性の悪いブラウザから開くかしなければ自分のアカウントにたどり着けない!)。
しかしそれでは、「そういえば最近あの人は何をしているんだろう?」というしょうもない思いが浮かんだ時に―私は何か集中していることがある時に限って全く関係のないことをふと思い出す傾向があるのだ―、その手間をかけてでも調べようとする私の強い好奇心に勝つことはできなかった。
誰かの様子を気にしたり、実際に調べたりすること自体は悪いことではないと思う。むしろ、社会的な生き物である人間にとって、他人を気にするのは遺伝子レベルで当然のことなのかもしれない。問題は、情報を得た時にほとんど毎回抱いてしまう劣等感や焦燥にあると考えている。

他の方法としては、サブアカウントを作成し、見ても感情の起伏を生じさせない関係にある人のみをフォローするという仕組みも考え実践した。例えば、現在進行形で現実においてもそれなりに近しい関係にある人や、比較対象にもなり得ないようなお気に入りの有名人(主に海外の歌手)が対象である。しかし、それでも問題が発生した。一つは、承認欲求が満たされないが故に「つまらない」ということである。サブアカウントのフォローの多くは、自分のメインアカウントから選別して連れてくることになる。その過程においてフィルターがかかるわけであるから、当然フォローもフォロワーも人数は減る。閲覧数もリアクションの最大数も減る。そして、もちろんフォロワーには有名人は含まれない。サブアカウントで何かアクションを起こしても、その規模の小ささやリアクション、変化の乏しさ、得られる情報の少なさ等からつまらないと感じてしまったのである。結果、自分の承認欲求を満たすことのできるメインアカウントに戻ることになる。

(考えてみれば、「見ても感情の起伏を生じさせない関係にある人」だけをフォローするというのも醜い行為だったのかもしれない。マイナスの感情を抱かないということは、私の中にどこか彼らを自分と同等、或いは下に見ているという「まなざし」が含まれていたのかもしれないのだ!)

もう一つは、現実の人間関係を基にフォローをすると、現実での変化に合わせてアカウントを変えなくてはならない為、短命で終わってしまうことが挙げられる(※この理由は他の記事で語ることにする)。「そもそも、サブアカウントは趣味用にすればよい」という意見もあるだろうが、私の趣味はそれほど他者の存在を必要とするものではなく、また私自身も同じ趣味を持つ他者との交流にそこまで関心がなかった。例えば、趣味の一つである読書において、作者のインタビューや読者のレビューを読むことは好むが、それらについて積極的に議論をすることは好まない。また、海外のアーティストに関しても、そのアーティストが好きなのであって、横のつながり(?)としてのファン同士の一体感のようなものにはそこまで興味が湧かないのである。一度X(旧Twitter)にてファンアカウントを作成してみたが、ライブで最高額のチケットを取っただの、ミュージックビデオのコスプレをしてみただの、奇妙なマウント合戦が繰り広げられているだけであった。そのような環境であったため、私もファンらしいアクションを起こすべきなのかもしれないと、半ば義務的に何かを投稿するようになり、やはりすぐに疲れてやめてしまった。

私は、察するに、自己肯定感が低いのだと思われる。高級ブランドに興味があるわけでもなければ、ソーシャルメディア上で濃淡に関わらず「つながり」のある人がしていることを同じようにしたいわけではない。それにもかかわらず、彼らの幸福そうな瞬間や非日常的経験の記録を目にした時に文字通り不快になってしまうのである。相手に対して好意的でない印象を抱き、時には怒りに似た衝動さえ生じることがある。それは或いは、妬み嫉みの典型なのかもしれない。自分の軸がないからこそ、すぐに他者の軸に感情的に振り回されてしまうのである。どこかで「どうでもいい」と思いつつも、時々芽生える好奇心に従ってアクセスすれば不快になるだけという、自分でも統制する機能を失ってしまっていたのである。

このように、様々にアカウント削除以外の方法を考えたものの、やはりアカウントが存在している限り不快な感情から逃れることはできないと判断した。中学時代から利用してきたアカウントであったため、その分「つながり」はある程度広かったといえる。Instagramのみで繋がっている人々もいたことから、「いざ、削除」となるとさすがに心理的抵抗も強かったが、これまでの葛藤を振り返れば良い判断だったように感じられる。

Instagramと私は相性が悪かったのである!

新しくもたらされた(或いは自分が意図的にもたらした)この変化が、どのように今後私の人生の展開において効いてくるのかは分からないが、ぜひ肯定的な道筋が描けることを期待したい。


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