Seta

大学生。

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最近の記事

多分note向いていない

内向的な自分。一度外に向けて意識が飛ぶと、そこに表れる言葉は自分のものではなくなる気がする。ここに自分が書いていることが誰かに読まれる(それが例え、誰か一人にでも)ということを意識した途端、僕が書いている言葉はその分からない誰かに向けた釈明のような、説明のような、言い訳の様な、そんな中身のないものになっている気がする。僕は日記を書いている。誰も読まない。決して誰にも読ませないノートがあって、そこには好き勝手思うままを綴っている。読者は未来の僕しかいないし、それは今の僕の延長線

    • いじめっ子は僕だった

      ソーシャルメディアから手を引いて、目の前に現れる人とだけ関わるようになった。とはいっても、知り合いは多くてもそこまで社交に積極的でない為、目の前に現れる人の母数は非常に少ない。あっても、限られた人と頻繁に会うという形である。人に会う予定が少ないというのは、実は健康に結構悪い。本格的な春がもうすぐそこまで来ているから、そのうち健康問題は解決されると思うが、天気の悪い上に予定がないと、本当に外に出ることがない。そこで、最近はよく川沿いを音楽を聴きながら散歩することが多い。今日もそ

      • 【殴り書き】今の心理状態

        知られたくない 忘れてほしい 覚えていてほしいのは当時の僕だけ 良かった時の良かった顔だけ 僕の見せたかった僕の姿だけ 誰かの記憶にぼんやりと残る輝かしい僕だけ でももう振り向かないでほしい 今は街ですれ違っても気づかれたくない 先に察知してコートに首を沈める 背を向けてやり過ごす あれからどうなったかなんて知ろうとしないで 今何をしているかなんて思いつかないで 想像の中で僕を終わらせてほしい 今は不在の過去の僕が過去にいただけ 誰も僕を知らない街に逃げてしまいたい 知り

        • 初めて一人で美術館へ

          僕は文学や音楽、映像作品、工芸品といった芸術を好む一方で、なかなか絵画のような芸術を解せない類の人間である。とりわけ、主題が一見観衆に不明瞭に提示されている場合や、反対に意図が強く込められ明快過ぎている場合(特に社会・政治的主張が濃いようなもの)、或いはそもそも主題なんてないような、装飾やカラーバリエーションだけが無駄に豪華な「生」そのものを表現したアートというのは理解に苦しむ。 また、抽象的な絵画の良さもあまり分からない。事物の境界線が曖昧にぼかされていたり、一昨日見た夢を

        多分note向いていない

          22歳になって思うこと①

          僕は、今年で22歳を迎えた。中学・高校時代はたくさんの人に祝われて、予約してくれていたレストランでサプライズのデザートが登場して、Instagramのストーリーにメッセージが載せられて、それを引用しコメントを追加して返して…。そんな賑やかな誕生日を過ごしていた時もあったが、大学生になって時を経るにつれて、その青春的鮮やかさは徐々に薄らいでいった。 22歳になった今年は、それこそ本当に現在進行形で関わりのある人からだけメッセージを頂いた。もちろん、それは嬉しいことである。 2

          22歳になって思うこと①

          終わりのないソシャゲー【脱依存】

          僕はゲームをすることが好きだ。小学一年生の頃、父にDSを貰ってから今日に至るまで様々なゲームをプレイしてきた。 そして僕は、ゲームに熱中すると依存しやすいことも経験上重々承知している。 例えば小学生の頃。1日1時間と決められていたゲーム時間ではどうも満足いかなくて、何とか親の目を盗んでリビングのパソコン台の下の棚からゲーム機を盗み、自分の部屋に持ち帰ってプレイしようとしていた。上手く持ち込めた夜は、時間を忘れて何時までもマリオカート(DS)をしていた。 また、ある時は起床時

          終わりのないソシャゲー【脱依存】

          通知はOFFで

          以前、ソーシャルメディア(SNS)と距離を置くことについて書いたが、僕は自分のスマートフォンを手に入れた中学3年卒業時期から、携帯の様々な機能における通知をOFFにしている。一時的に、特定のアプリの通知をONにせざるを得ない状況もあるが(例えば、当時熱中していたソーシャルゲームにおいて、一日に数回お得に素材集めができるクエストが発生することがあった為、依存状態にあった頃はその発生を知らせてもらっていた)、基本的には一貫してOFFの状態にある。 なぜなら、通知は僕の集中してい

          通知はOFFで

          自己紹介🍀

          既に何稿か出してしまっているけれど、簡単にこのNoteを操作している「僕」についての自己紹介をしておきたい。 プライバシーを過剰に気にする質なので多くは語らないが、匿名である限り得体の知れない誰かが書いているというよりも、「こういう特徴・バックグラウンド・思想の奴が書いているのか」と言う方が共感を得やすいのではないかと考えた。 ★基本情報 現在は大学の3年生。 横浜に生まれ育った「はまっこ」である。 (横浜の子どもたちは浜っ子と呼ばれるのだ) 流行りの16 persona

          自己紹介🍀

          友だち不要論

          僕に友だちは不要だ。 強がっている訳ではない。 ただ、僕の人生において友だちの重要性が極めて低いのだ。 まず、現在の趣味に他者を必要とするものはない。 一人で楽しめる自己完結型のものが多い。 読書にゲーム、ピアノ、ガーデニング、散歩、勉強… これらに他者が侵入してきて、僕の心地よい世界が崩されていくことは避けたい。自分の歩むリズムがある。誰かに何か言われたくはないのだ。 また、コスパが悪いし、維持費がかかる。 かつてはノリで食事や遊びに出かけていたが、出費は嵩むし気疲れす

          友だち不要論

          被害者になりたがる自称「少数派」の人々:HSP

          「それって本当にどうしようもないことなのだろうか?」 と考えさせられることがある。 例えば、最近その言葉が流行・浸透し、多くの人が自覚するようになったHSP(Highly Sensitive Person)、別の名を「繊細さん」。 本人が該当化するか否かのチェックリストは様々に出回っていて、私も自身の生きづらさから何冊かの関連書籍を巡り、自分がHSS型HSP気質であることを確認したことがある。 HSPは(現時点において)心理病理として認定されている訳ではなく、あくまでその人

          被害者になりたがる自称「少数派」の人々:HSP

          私の人間関係に対する基本的な考え方:3年契約論

          他者に対してそこまでの関心がないことや、人間関係構築・維持のために積極的に資源を割かないことが相手に見透かされているのか、時々私はそのドライさの所以を聞かれることがある。 その度私は、自分の中で基本的な人間関係の捉え方としている「3年契約」論について口に出すわけだが、それはほとんどの場合相手の顰蹙を買って終わることが多い。もちろん、ある程度私の性格を理解して比較的長期間にわたって関わっている人からは、支持的な反応を示されたり参考にされたりすることもあるのだが。 今回はそんな

          私の人間関係に対する基本的な考え方:3年契約論

          「友だち」という呼び方はもうやめたい

          「友だち100人できるかな?」 という歌詞を、私も小学生時代に歌わされた記憶がある。 そもそも、友だちという概念は捉え難い。人によってその境界線―そのようなものがあれば、ということではあるが―も異なる。とても主観的で、とても柔軟な線なのだろうと思う。 私は、誰かその場にいない人を指して「友だち」という呼び名を代名詞に使うのが苦手である。そこに「ただの知り合い」とはまるで程度の違う重みを感じてしまうからである。では、その人は友だちではないのか、と問われればそんなこともない、

          「友だち」という呼び方はもうやめたい

          Instagramに別れを告げる

          先日、約7年間メインとして利用してきたInstagramのアカウントを削除した。そのことが最も大きな意図的「変化」であったことは間違いないが、付け加えておくとその他サブとして起動させていた2つのアカウントに、Facebookの1アカウント、そしてX(旧Twitter)の2つのアカウントも同時期に続けて削除した。しかし、それらは正直あってもなくても大した影響はないという程度のものであった。 これまでも、ソーシャルメディアの弊害を訴える「意識高い系」に感化されたり、実際に負の側

          Instagramに別れを告げる