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「友だち」という呼び方はもうやめたい

「友だち100人できるかな?」
という歌詞を、私も小学生時代に歌わされた記憶がある。

そもそも、友だちという概念は捉え難い。人によってその境界線―そのようなものがあれば、ということではあるが―も異なる。とても主観的で、とても柔軟な線なのだろうと思う。

私は、誰かその場にいない人を指して「友だち」という呼び名を代名詞に使うのが苦手である。そこに「ただの知り合い」とはまるで程度の違う重みを感じてしまうからである。では、その人は友だちではないのか、と問われればそんなこともない、と信じたい。
そう考える根底には何があるのかということを考えた時に、私は人間関係を流動的なものだと捉えていることが関係しているのではないかと思う。

我々はそれぞれが「生」駅を出発し、その終着点に向かって先の見えない霧の中を走っている。ある程度自らの意思で敷かれた線路の方向を曲げることはできるが、そうするためにはそれなりの労力が必要とされる。
終着点に向かう途中で我々は、他の人々と交差したり、時には並走したりする。その中で関係を深めることもあれば、互いに車体をぶつけ合って傷つけ合いもする。しかし、終着点まで一緒にいるということはほとんどない。多くの場合、我々は然るべき時にまた別々の方へ向けて走っていく。

例えば、上のイメージのように私は人間関係を捉えている。
従って、もし友だちを使って表現しなくてはならないのであれば、親しみの濃かった頃のことを想って、中学・高校時代に仲の良かった彼らのことは「過去の友だち」と。現在仲の良い彼らのことは「現在の友だち」と、そう呼びたいのである。

一度話した人はみんな友だちだと考える人もいる。それもいい考えだと思う。しかし、「友だち」だと思うと、冒頭の歌「いちねんせいになったら」のようにどこか「仲良くしなくてはいけない」、そして「良好な関係を維持しなくてはいけない」という思想が押し付けられているように感じてしまう。それは、かなり重くないだろうか。私は少なくとも重いと思ってしまう。

その重みを意識するようになった背景には、ソーシャルメディアの存在がある。前回の記事において、Instagramを削除したことについて書いたが、友だち(フォロー・フォロワー)の重みも関連しているように思う。
友だちの境界線は曖昧かつ人によって異なることを先に記したが、ソーシャルメディア上ではそれを固定的に意識しやすい。LINEでは友だち、X(旧Twitter)やInstagramではフォロー・フォロワーが一種の友だちの基準になる。「フォロー・フォロワーの関係にあるから(現実世界でも)友だち」という考え方はそれなりに浸透しているのではないか。

そう考える一つの背景として、私の実際の経験がある。私がInstagram上でまだ頻繁に投稿などを行っていた頃(大学入学頃)、流れてくる無駄な情報・知りたくもない情報があまりにも多い為にフォローを整理しようと考えた。中には、あまりの承認欲求の強さに見ていて退屈に感じるアカウントもあったため、それらを含めかなりの数をアンフォローした。そのような中、終盤は作業的になり、集中力も欠けてきてしまっていたためか、偶然高校時代の知り合いを一人アンフォローしてしまったのである。すると、翌週には共通の知り合いから「○○のフォロー外したんでしょ?怒ってたよ」と伝えられ、驚いて調べてみるといつの間にか相手からのフォローも外されていた。LINEを通じて話しかけたものの返信もなく、そのままその人とは現実の関係も破綻したのである。相手にとっては、相互フォローではなくなって、「友だちやめた!」ということなのだろう。

このような経験もあり、知り合いの中にわざわざ「友だち」と呼ぶ集団をつくることも、ソーシャルメディア上のつながり数が多いこと自体も、重く感じるようになってしまった。そのことを思うと、様々な疑問が湧いてくるのである。かれこれ3,4年音沙汰もないのにフォロー・フォロワーの関係にある。これは何だろう?現実ではもう「過去の友だち」なのに、ソーシャルメディアでは「現在のともだち」?この関係って、いつまで維持すればいいんだろう?そういえばこの人も…この人もだ…何も話していないのに「友だち」としてつながっている。

ただひたすらに増えていく「友だち」を蓄積してきたことでできた、この長い長い友だちリストを維持することは、あまりにも重いのである。
疲れて頭が「鯖落ち」しそうなのだ!

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