全ての出来事が1つの道を指していた
10年前
グラフィックデザイナーとして勤めた会社を辞めた。
「もっと直接人の心に届くものが作りたい」
そんな大そうなことを言って辞めた。
きっとその時にはもう決まってた。
ううん。きっともっとずっと前から…
初めてものを書いたのは
多分5、6歳。
記憶違いでも少なくとも小学低学年。
今考えれば、まさかと思うけど
当時、父の分厚いパソコンを借りて
Wordを使って、物語を紡いでいた。
きっともう
その時には決まってた。
『描いて生きていくこと』が。
今まで私が通って来たことは
全てそのための道筋なのだと思う。
小さな一つ一つの点が
その場所へ向かっていたのだと思う。
「もし、なんのしがらみもなく
好きなことだけをして生きていけるとしたら
何をして生きていきたい?」
そう聞いた時
彼は「絵を描いて生きていきたい」
そう言っていた。
デザイナーの師匠でもあった彼は
いくつものキャラクターデザインをして
スケッチブックにはイラストや落書きがびっちり描いてあった。
全くイラストの描けなかった私は
今、彼がいなくなった世界でイラストを描いている。
「作家として生きていくなら
いつまでも身を削ってないで
何を書きたいかちゃんと考えた方がいい」
旦那だった彼が突然に死んで
吐き出すように始めたブログが書籍化し
次に出す本の構成を持って行った時に
編集の方にピシャリと言われた。
…作家…?
彼の死後、ブログを書き始めてから
エッセイストになったらいいとか
文章に心揺さぶられたとか
何だかそう言ってもらえる中
あれよあれよと2冊目の話が来て
それは単純にとても嬉しいことだったので
何も考えずに
自分がいいと思うものの構成を持って行って言われた。
自分が何をして生きていこうかだなんて
まだぼんやりとすら考えていなかった時に。
作家になりたいの『…さ』すらも
考えていなかった時に。
自分が何をして生きていきたいかだなんて分からなかった。
というか生きているという状況だけで精一杯だった。
彼の死んだ世界で生きているだけで精一杯だった。
でもその言葉は、私の胸に突き刺さったまま。
10年前、私は
人の心に届くものが作りたいと言って会社を辞めた。
デザイナー時代、師匠でもあった旦那に
『伝える』ということをしこたま教え込まれた。
学生時代、
グラフィクデザイナーになるために勉強し進路を選んだ。
中学時代、
舞台の脚本を書いた事がある。
その舞台を見たOBの先輩から脚本が欲しいと言われた。
本を沢山読んだ幼少期。
初めてものを書いたのは就学するかしないかの年齢。
きっと書く事が好きだった。
伝える事が好きだった。
そして今
モノを書いて、描いて生きていく道を選んだ。
書くことを生業に生きていこうだなんて
ほんの一年前にも思っていなかった。
決めたのは最近
もうすぐ40歳が見えてきた今。
彼が死んで四年が経って
改めて自分が生きていく道を見つめた時に
堅実に稼ぐ道よりも
培ってきたデザイナーの技術を活かすよりも
やりたいことがあった。
想いを言葉にして
言葉を形にして伝えていきたい。
伝えることの尊さを
私はきっと誰よりも知っているから。
文章も絵も未熟なのは重々承知。
幼い子供が二人もいるのに
旦那は死んだのに
私が家計を支えないといけないのに
『書きたいものを描いて食っていきたい』
そんな夢みたいなこと言っている場合じゃない。
そこ一択で飛び込むには
安心材料が無さすぎる。
うまくいく保証も確証もない。
着実に確実にパートに出て働いた方が
安定した稼ぎが手に入ることでしょう。
けれど
彼が死んだことで
やらなければいけないことではなく
やりたいことだけに目が向いた
自分がこの世界を去るために目を閉じる
その瞬間まで
好きなことをして生きていきたい。
好きなことをして生きた。と死んでいきたい。
人生の時間は誰にも平等にあって
誰にでも平等に失くなっていく。
やりたいことをやるのに
遅すぎることなんてない。
やらないで終わることの方が
恐ろしい。
儚い人生は
どうせ終わってしまう人生は
夢見てなんぼ。
やりたいことやってなんぼ。
そう、私は彼から教えられた。
彼の死から教えられた。
『時間には限りがあるから
大切に笑って生きてほしい』
書く事が好きで
描く想いを受け継いで
伝えることを学び
私にしか綴れない言葉がある。
であれば
私がこの職業を選ばない理由があるだろうか。
人生を描いて
言葉を紡いで
人の心に届くものが作りたい。
できるからじゃない。
やれるからじゃない。
やりたいから。
全ての出来事がきっと
私がものを書く道へと向かわせたのだと思う。
そして
その道を選んだら
その道を自分で歩くことを決めたら
きっと
全てのことに意味があったのだと思えるのだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?