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精米の移り変わり

こんにちは。

あなたは白米、玄米どっちが好きですか?

精米するだけで、全く味に変わるお米。


今は精米機をチャチャっと動かせば好きな

段階に搗いてくれます。

しかし、精米機がなかった時代、どのように

お米を食べていたのでしょうか?


本日は精米の歴史と米の食べ方について

考察して参りたいと思います。



精米の移り変わり 


縄文時代後期~弥生時代

この頃は今のような「うるち米」ではなく、

赤や紫色をした稲の原種ともいえる「古代米」

を臼に入れ杵で搗いて、精白していました。


しかし、これは上流階級や祭祀の時に

お目見えする程度で庶民が普通に食べら

れるものではありませんでした。





この頃には上流階級の食事は白米になり、

蒸したり炊いたりと調理法にもバリエーション

も増えました。


品種も今の米に近いものになりましたが

精米は肉体的にも時間的にも、まだまだ

大変な仕事でした。


庶民は税金として育てた米を献上しなく

てはいけなかったので必要な量は足りず、

僅かな白米に雑穀や野菜を混ぜて粥状に

のばして食べていました。




室町~安土桃山時代

農業技術や新田の開発が進み、お米の

収穫量も格段に向上し武士が、そして

庶民も時々白米を食べられるように

なりました。



江戸時代

中国から足踏み式の「唐臼」が伝わり、

さらに水車を動力に大型化し、精米

技術は向上、生産性も徐々に高まり



中期、八代将軍徳川吉宗は享保の改革で

武士だけでなく農民も白米が手に入り

やすい環境にしました。



また、都市部では火災への対策から

一日分のご飯を一度にまとめて炊く

習慣になっていたため、腐りやすい

古代米や雑穀米ではなく、白米が

一般化されるようになっていました。



当時はとにかく一食2合くらいの大量の

ご飯を少々の漬物と汁物、たまに野菜の

煮物か焼き魚1/3尾程度を食べていた

と言われています。



この頃に大流行した「江戸患い₍わずらい)」

と呼ばれる脚気は白米を主食にしていた

権力者の多い都市部に広がりました。


白米が中心で上記のような漬物と少量

のおかずだけで不足したビタミンB₁など

を補えなかった為、起きたものと言われ

ています。



このように権力者の食事は記述はあり

ますが、庶民の食事は推測でしか

ありません。




そして地方の人が玄米を食べていたのか、

雑穀や雑炊のようなものを食べていたか

も定かではありませんが



どうやらここまでの時代の庶民には、

主食が米という概念はなく、麦、アワ、

ヒエ、芋、大根、木の実、山菜などを

メインに米がそこに少し加えられていた

程度であることが推測できます。




明治時代

この頃から一般庶民も脚気にかかるものが

出てきました。明治政府が「兵隊になれば

白米が食えるぞ」と宣伝して円滑に徴兵

させていました。この頃はまだ、庶民は

白米は日常ではなかった為、志願する若者が

増えました。


そして広島で、現在でも精米機トップメーカー

である「サタケ」が動力式精米機を発明し

益々、精米が一般化されはじめました。




第二次世界大戦中


政府は国民に平等に配給米を配り団結を強めよう

としましたが、軍隊への米の供給が増量したため、

一般家庭への分配は少なく、極度の食糧難に

陥っていました。



戦後

現在のような白米だけのお米が食べられるように

なりました。



まとめ 

歴史上米が全国民に行き渡らず、庶民は野菜

や雑穀を混ぜたものを主食としていました。


今は米にそれ以外のものを混ぜ込む感覚ですが

当時は逆に米が少し混ざっているという感覚の

主食であったと思われます。




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