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Virginity―ユニコーンの囁き(7)

当作品はBL小説です。
男性同士の恋愛感情がでてきますので、苦手なかたはスルーをお願いします。





《前回のおはなし↓》


 ジリアンは乾いた清潔なシャツを着せられ、困惑しながらも眠りに落ちた。
 今度は、悪い夢は見なかった。よく眠れたような気がする。こころなしか、足首の痛みがかるくなっている。
 シュラフの中でじっとしていると、胃が空っぽであることが意識される。
 薄目をあけて、あたりの様子を見る。
 斜めに差しこんだ光が、床の上に躍っていた。
 鳥の声が、笛のように澄んだ音色を響かせる。葉ずれの音が、山小屋全体をつつんでいた。
 ジリアンは、ゆっくりと体をおこしてみた。深呼吸をする。
 青い空気が肺の奥にしみとおり、体の内側から洗われる感じがした。
 山小屋の中に、クレメンス・ウッドローの姿がない。
 彼はバケツから水滴を滴らせてもどってきた。
「近くに川があるんだ。タンクの水にはかぎりがあるからね」
 気分はどうだい、と言われてジリアンはほほえんだ。
「空気がおいしいです。せっかく山にきたんだから、もっと歩いてみたかったな」
「散歩にいってみるかい」
「いいんですか」
 反射的に表情を輝かせてしまい、ジリアンはあせった。奇妙な性癖の人物に、気をゆるしすぎるのは危険だろうか。
「まずは朝食にしよう」
 ウッドローはキャンプ用の小さな鍋と固形燃料でオートミールを作り、ひとさじずつ食べさせてくれた。
「昨夜の雨で、道がぬかるんでいる。麓にむかうのは、明日以降のほうがよさそうだね」
「…はい」
 ヒナ鳥のように、餌を与えられている。小さな子供でもないのに、おかしいな。そう思ってしまい、自然に笑みがこぼれた。
 唇の端についた粥を、ウッドローの長い指がひょいとぬぐった。なんでもないことのように自分の口に入れ、次のひとさじをさしだしてくる。
 世話をしてくれるのはありがたいが、やりすぎだと思う。ジリアンは遠慮がちに言った。
「あの…。ご親切は、ありがたいんですが…。やっぱり、気持ち悪いです…」
 ウッドローは灰色の目をしばたたき、笑いだした。
「すまない。つい、楽しくてね。生きた人間にかかわるのは、ひさしぶりなものだから」
 ジリアンはぎくりと固まった。
 生きた人間でないのなら、彼は一体なにを相手にしていたというのか。
 ホラー映画のような光景が脳裏をかけめぐり、くわえたスプーンを落としそうになる。
 彼は笑って、ジリアンの想像を打ち消した。
「悠久の美を求めて、山々をカメラにおさめてきた。人間に興味がないでもないが…彼らは少々、移ろうのが早すぎるように感じるね」
 山と人間を、同じスケールでくらべるものではないと思う。ジリアンは彼に言った。
「…その、移ろいやすい人間のひとりであるぼくに…。親切にしてくださる理由は、なんですか」
「きみは、とりわけピュアだからね。清浄でもあり、清楚でもある」
 ゆうべもたしか、似たようなことを言っていた。口説き文句と受けとるには、欲望と粘り気が少ない気がする。
 なんだろう、この感じは。
 聖職者というより、古い教会の柱に彫刻されている聖人めいていた。
 ジリアンは首をかしげた。
「ええと…、あなたはぼくを、犬とか猫みたいに思ってはいませんか」
 彼は笑った。表情がやわらぐと思いのほか若く見え、三十代でもとおるかもしれない。角度によっては五十歳ぐらいにも思える、年齢不詳の容貌だった。
「ジリアン・ロイ。きみはもちろん、猫じゃない。犬でもない」
「あの…」
「きみは私の理想とする人形に、きわめて近いフォルムをもっている。しかし、実物に会って考えが変わった」
「…どう、変わったんですか」
「躍動と変化も、美のうちであると。だから、きみを追った。写真を撮りたいと思ったから」
「あなたはぼくを、被写体として見ていたんですね」
 ようやく得心がいって、肩の力が抜けた。
「試合を観にきていたのなら、撮ってくださればよかったのに」
「ところが私は、動くものを撮るのに慣れていないんだ。それに、試合で選手を撮るには特別な許可証が必要だろう。これまで山岳写真ばかり撮ってきた人間が、急に翻心しても出番がないのさ」
 残念そうにウッドローは言い、ジリアンの食べ残した粥を鍋からかきこんだ。スプーンできれいにすくい、汚れものを極力でないようにして片付ける。
 洗いものをして戻ってくると、足首の布をほどいて傷を見てくれた。
 腫れはひいてきたが、まだ歩ける状態ではないようだ。
 薬草酒を浸した布をふたたび巻きつけ、彼は言った。
「なるべく早く、病院にいったほうがいいね。傷口は小さくとも、感染症の危険があるから」
 ジリアンはうなずいた。
「そうします。近くの病院をご存知ですか。ぼくは土地勘がないので…」
「明日になれば、道も歩きやすくなるだろう。知人の病院まで送っていくよ」
 ジリアンは礼を言い、ウッドローの顔を見た。これだけ親切にしてもらっても、返せるものがなにもない。ただひとつをのぞいては。
 彼は言った。
「ぼくを撮ってくださいませんか。試合のような動きはできないし、衣装もありませんけれど」
 ウッドローはぴくりとした。灰色の眼差しの奥に、不可思議な光が宿る。
「…いいのかな。後悔しないかい」
「お返しできるものが、ほかにありませんから」
 肩を揺らして、ウッドローは笑った。
「無欲と、清浄。その両翼をかねそなえている、きみは…」
 戸惑う肩の上に、長い指を持つ手がしっかりと乗せられた。
「ユニコーンが求める、真の処女の資格をもつ。汲めども尽きぬ、神秘の対象だよ」
「ええと…」
 処女とはなんだろう。神秘とは。
 単に未経験であることを意味する、ヴァージンなのか。
 こわくて深く問いただせずにいるうちに接近され、両手で頬をつつまれて飛びあがりそうになった。
「…あの…」
「…素のままのきみを、撮ってみたいな。ひとまず、シャツを脱いでほしい」
 うっかり忘れて警戒をゆるめていたが、クレメンス・ウッドローはそうした人間だった。
 撮影に応じたことを、ジリアンは冷や汗とともに後悔した。

 ジリアン・ロイは、クレメンス・ウッドローに背負われて山を下りた。
 スケート選手が商売道具の足を痛めてはいけないと、彼が頑として譲らなかったからである。
 やせてみえる男は異様に足腰が強く、人ひとりを背負ったまま山道を着実にくだっていった。
 山裾から病院までは、愛車の古いジープで送ってくれた。ウッドローは胸元から小さなカードをさしだす。
「紹介状がわりにするといい。院長は私の悪友だ。治療が手荒かったら、遠慮なく文句を言うといい」
 写真家・クレメンス・ウッドロー。朝焼けの山を背景にした美しいカードには、そう印刷されている。
 ジリアンも名前だけは聞いたことのある、風景写真家だった。同時に人形作家でもあると、耳に挟んだ気がする。
 偏屈な人物として語られており、メディアへの露出を極端に嫌うという話だった。
 どうりで、会ったことがないはずだ。
「…お世話になりました。…でも、あなたはぼくのどこが、そんなに気に入ったんですか」
 ジリアン自身は、ウッドローに執着される理由がさっぱりのみこめずにいた。
 ユージン・カトーのような、性別不詳に見えるほどの美貌をもつ人間もいる。
 カリスマ性なら、ロシアのセルゲイ・マシンスキーがさかんに誇示していた。
 そして自分は、荒削りと評されていたが大躍進をとげた選手…ドイツのマックス・ギュンターに負けた身だ。
 どこにいいところがあるのか、さっぱりわからない。
 力なくほほえむジリアンの頰は、次の瞬間あざやかに染まった。
「それはもちろん、きみの処女性だよ。多くの人間が、その匂いに惹きつけられるだろう。…気をつけることだ」
 またもや処女だと言われた。
 欧米に童貞という言葉はなく、男も女も未経験者はヴァージンとして扱われる。
 消えいりそうに身を縮めるジリアンに、クレメンスは慈愛に満ちたほほえみを送った。
「恥じることはない。なぜなら私も、ユニコーンであると同時に処女でもあるから」
 クレメンス・ウッドローが、いつの時点で人間を愛せない自分に気づいたのかはわからない。
 ひたすらもの言わぬ人形に愛をそそいできたのなら、その年齢にして純潔をたもっているのも無理もないことではあった。
 ジリアンは顔の下半分を片手で覆いながら、ようやく呻いた。
「なぜ、わかったんです…」
「わかるさ。きみは、とてもピュアだからね」
 ピュアとは、純粋さのみを意味しない。潔白であること。清潔であること。そして、ウッドローの言うように純潔をも意味する。
 周囲には、あまり知られたくないことだった。この年齢で経験がないとわかったら、奇異な目で見られそうだ。
 肩を縮めるジリアンを気づかうように、ウッドローは言い添えた。
「私はユニコーンの一族だから、敏感なんだ。…寝言で呼んでいたきみの思い人も、おそらくユニコーン族だろうと私は睨んでいる」
「ユニコーンって、その…空想の生き物ですか」
「…そうであるとも、ないともいえる。カナダの国章にも描かれているだろう。…彼らは処女が、とても好きだからね」
 ウッドローの話は謎めいて、なにを意味するのかわからないことが多い。説明をもとめてもきりがなさそうだ。
 ジリアンは彼の言葉を、詩のようにただ聞いておくことにした。
 それより、なにもかも筒抜けだったことが気にかかる。ジリアンは、やけのように告白した。
「…たしかにぼくは今、崖っぷちにいます。親友に気持ちを伝えはしたけど、まだ返事をもらっていない。もし、うまくいかなかったら…。一生誰のことも、好きになれないかもしれないんですよ」
「…百人の人間がいたら、百通りの生きかたがあっていい。それも、ひとつの生きかただ。…ときに、望外の喜びにめぐりあうこともある。…なかなか、悪くないものだよ」
 それは、つらい恋に直接救いをもたらす言葉ではなかった。しかし、クレメンス・ウッドローが元気づけようとしているのは伝わってきた。
 なにより、彼自身が特殊な価値観を持って生きていることが、その証明だ。
 傍目には人生を謳歌しているように見えないかもしれないが、彼なりに楽しそうではある。淡々としていながら、実に自然に呼吸しているように見えた。
 たしかに、スケートだけが人生ではない。恋だけが人生というわけでもない。
 リンクをおりて若さが過ぎさったあとも、日々はつづいてゆくのだから。
 母の希望でつづけていた俳優を、やめてもいい。
 たずねたことのないインドやアフリカに行って、のんびりすごしてみるのもいい。山登りをはじめてもいい。
 みんながぼくを才能あるスケーターだといい、完璧な演技者だと評価した。
 でも、それはちがうと思う。
 努力と訓練で、ジャンプのミスや要素の抜けをカバーしてきただけだ。
 失敗したプログラムを立て直すように、人生をやり直すことことだって、ぼくにはできる。
 今はうまくできなくても…きっと、できるようになるはずだ。
 希望の光が内側から胸を照らし、彼はひさしぶりに晴れやかな笑みをみせた。
「…疲れたら、ぼくも山に行きたくなるかもしれません。怪我が治ったら、案内してもらえますか」
「歓迎するよ。今度は、きみのユニコーンを連れてくるといい」
 クレメンス・ウッドローは、たしかに変人だった。しかし、ジリアンにとってはある種の薬草めいた効果をもたらしたようだ。
 長年の恋わずらいが治るわけではないけれど、痛みの度合いは減っていた。
 そろそろ、返事を聞かせてもらえる時期だ。
 とにかく一度、ウィリアム・ヒューバートに会ってみよう。結論をだすのは、それからでも遅くはないはずだ。
 ジリアンは持ち前の爽やかさをとりもどし、車からおりてウッドローに言った。
「どうもありがとうございました。 …あなたに、神の祝福を。ウッドローさん」
 クレメンスは照れ笑いが失敗したときのような、微妙な表情を浮かべていた。
 彼がファーストネームのクレメンスと呼ばれたがっていたらしいことを、ジリアンはあとになってから知った。

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