Virginity―ユニコーンの囁き(6)

 当作品はBL小説です。
男性同士の恋愛感情がでてきますので、苦手なかたはスルーをお願い致します。

《前回のおはなし↓》



 ジリアンは、ウィリアムがアルバイト契約を結んだ野球チームの試合をこっそり観にいったことがある。
 マスコミにみつからないよう黒いキャップを目深にかぶり、体のラインがでない目立たない色の服を選んだ。
 マイナーリーグ球団の小さな球団は、怪我をした選手に対応できる人材をもとめていた。医学生のウィリアムは、条件にぴったりだったらしい。
 裏方のトレーナーが、ベンチに座ることはないかもしれない。ジリアンはそう思ったが、ウィリアムは席を与えられていた。
 試合がおわった後の彼は、選手らとなごやかに話していた。球団を彩るチアリーダーたちも、一番若いウィリアムに話しかける。
 健康的な美女とたくましいウィリアムは、似合いの一対に見えた。
 トレーナーとしての能力を認められれば、メジャーな球団に移るチャンスも増える。
 スポーツは全般に、男らしくあることが称賛される。
 ゲイであることは女々しいとみなされがちで、有利には働かないだろう。
 たとえ選手ではなく、トレーナーだとしても。
 カムアウトしたトレーナーに身をまかせ、マッサージをしてもらいたがる選手がどれほどいるだろう。
 ウィリアム・ヒューバートがどれほど誠実に働いても、降り注ぐ偏見を払拭するまでには、気が遠くなるほどの時間と忍耐を必要とするのではないか。
 自分がパートナーになることで、ウィリアムは苦労する。
 想像したくないことではあったけれど、重い現実はジリアンを深く打ちのめした。
 くわえて、ジリアン自身には自身の未来がうまく見通せなかった。
 研究していたのはシェイクスピアをはじめとする英国文学だから、企業の即戦力になれるわけではない。
 伯父をはじめ、親族たちが経営するホテルのうちどこかで働けばいいと母は言う。
 しかし、どんな仕事もそう簡単なものではない。
 スケーターに戻るか、コーチや振付師として再出発をはかるか。
 ジリアン・ロイは、私生活においても公の人生においても、岐路にたたされていた。
 ウィリアムのことは、あきらめよう。
 彼が人生で幸福を得るのを、じゃましたくない。
 心に傷を負ったジリアンは、親族が経営するエステサロンにでかけた母親あてに、書き置きを残して家をでた。
 ウィリアムから返事をもらう期日と、卒業式を目前に控えた五月末だった。
 心の傷が癒えるまで、トロントには戻らないつもりだった。
 アスリートとして生きてきた自分は、もっと強いはずだった。
 時間と距離をおけば、恋の痛手にも耐えられる。
 長いつきあいのウィリアムとなら、親友としてやり直すことができるはずだった。
 彼がほかのパートナーと手をつなぐ場面を、笑って祝福できるようになる。
 ジリアンは、そう信じた。必死に信じこもうとしていたのだった。
 その結果が、これだった。
 喉がひりついて、頭の芯がぼうっとかすむ。
 苦しくて何度も、友の名前を呼んだ気がする。
 何度も夢に落ちては浮かびあがり、つらい夢に引き戻される。
 ウィリアム・ヒューバートがチアリーダーの肩を抱き、届かぬ想いを告げた自分を嘲笑っている…。
 救いを求めてすがりついたソフィアには、「触らないで」と突きとばされた。
「あなたのせいよ、ジリー。あなたがいなければ、ウィルはわたしのものだったのに」
「そんな…。ぼくは、きみから彼を奪うつもりは…」
 …否、そうではない。
 …ジリアン・ロイ。
 …お前は人のよいソフィアを押しのけてでも、ウィリアム・ヒューバートを自分のものにしたかったのだ。
 そうでなければ、うかつに告白などできるはずがない。
 とうとう、聞いてしまった。その声を――…。
 泥のように体が重く、指先さえも思うように動かせない。息が詰まる。
 ジリアンは浮上しようともがいて、声を絞りだした。
「…ル…っ。…、ィル……」
 誰かがそばにやってきて、ひんやりした布で唇を湿らせてくれた。とたんに、ひどく渇きをおぼえた。
「…むせないように、気をつけて」
 誰かが体をささえ、アルミのカップを唇にあててくれた。
 両手で支えてそれを飲んだが、やはりむせた。顎から喉にこぼれた水が、そっと指先でぬぐわれる。
 ふたたび寝かされ、失われた水分が胃に落ちてゆくのを待った。しだいに、ぼやけた茶色が視界に入る。ジリアン・ロイはしばらくの間、うつろな目を壁に据えていた。
 ここは、どこなのだろう。
 おだやかな男の声が、ジリアンに記憶をとりもどさせた。
「ここは、中腹にある山小屋だよ。きみは、崖から滑りおちたんだ。傷は洗っておいたが、おそらく捻挫していると思う」
 ジリアンは瞳を開いて、見知らぬ中年の男を見た。
 登山者風の着慣れたシャツとベストを着け、ニット帽をかぶっている。
 背が高くみえるのは、やせているからだ。肩幅が狭いせいで、どこかぬめりとした印象をうける。
 やや面長の顔に、とりたてて特徴はない。目を離したとたんに、印象が薄れてゆきそうだ。
「…あなたが、助けてくれたんですか」
「そうだが、感謝する必要はない。私は、きみの後をつけていたのだから」
 ジリアンの目に驚きがうかび、やがて乾いた色に変わる。
「ああ…。取材ですか」
「そうだとも、そうではないともいえる。普段から写真ばかり撮ってはいるが」
 小屋の隅に置かれた、無骨なカメラが視野に入った。ジリアンは呟いた。
「…カメラマンの方ですか」
 男は答えなかったが、かすかにほほえんだ。
「…きみは、フィギュアスケーターのジリアン・ロイだね。試合を見にいったことがある」
 ジリアンは、黙って男の静かな表情を見つめた。
 カメラマンなら、何人か知った顔がある。彼はそのうちの、誰でもないようだった。ジリアンはため息をついて目を閉じた。
「…思いだせないみたいです…」
「かまわないよ。ここを離れたら、私のことは忘れるといい」
「…あなたは…」
「このあたりで、よく写真を撮っている者だ。私にとって、ここは自分の庭のようなものだよ。きみが動けるようになったら、麓の村まで案内しよう」
 親切なもの言いや手当てからして、どうも悪い人間ではなさそうだ。親切すぎるのがやや気にかかる点であり、不安材料でもあった。
 ジリアンは、ぼやけた頭で先ほどの会話を思いだそうとした。
「……、どうして、助けてくれたんですか…」
「答えは単純明快だ。きみに、興味があったからさ」
 さらりと言われ、閉じた目をふたたび開く。男のグレーの目はあまりにもおだやかで、感情の色が読めなかった。
 一体、どういう意味なのだろう。
 二人の視線が宙空で交わり、あいまいにほほえみあった。
 よくわからない男だ。興味や親切心だけで救助ができるほど、山は甘くない。
「…ぼくは…。期待されていたのに、金メダルを持ち帰ることができなかった選手です。来季のオリンピックまで、選手でいられるかどうかもわかりません。そんなぼくに、どんな価値があると…」
 男はかるく肩をすくめた。
「きみはまだ、自分の価値を知らない」
「…え…」
 男の目が、不意に熱をはらんでジリアンをとらえる。
 その手が掛けられていた毛布を取りのけると、ー糸まとわぬ白い体が現れた。
 男は上から下までもれなく鑑賞し、満足げにうなずいた。
「きみは、とてもピュアだね。それだけでも、救助するのに充分な理由がある」
「…あの…、っ…、ぼくの服は…」
 あやしい眼差しから逃れようと、体をひねる。途端に足首に電流が走り、思わず呻いた。
「動かないほうがいい。少なくとも、腫れが引くまでは」 
 ジリアンは、己の置かれた立場と絶望的な状況をさとった。
 自由のきかない足では、逃げようがない。この山小屋がどこにあるのさえ、自分は知らない。
 命があるだけでも、ありがたいと思わなければならないのかもしれない。
「勝手に脱がせて、悪かったね。きみの服は、洗って乾燥中だ。私のでよければ、乾いたのを貸してあげよう」
 その前に、汗をふいたほうがいいな。男はひとり納得して、小さな容器をぶら下さげてゆき、小屋の隅で水を汲んだ。
 水道があるとは思えないので、濾過した雨水をタンクに溜めておく設備があるのかもしれない。
 言葉をうしなったジリアンを気の毒に思ったのか、男は傍に膝をつくと静かに言った。
「私はクレメンス・ウッドローだ。…名前を聞いたところで、安心などできないだろうが。きみを愛でこそすれ、乱暴をする気はないと言っておくよ」
「…クレメンス・ウッドロー…」
どこかで聞いたことがあるような名前だ。しかし頭の芯がぼやけていて、考えがまとまらない。
 男は手にした布に小瓶の液体をしみこませ、足首に巻きつけてくれた。アルコールと薬草の匂いがした。
「修道院じこみのハーブ酒だ。持ってきてよかった」
 ジリアンは熱のためにうるんできた目を開き、ささやいた。
「……、あの、ウッドローさん…」
「痛むかい」
「…少し。…あなたは…、一体…」
「…名前を呼ばれるのは、とてもいい。なにか、生き返る心地がするね。きみの弱みにつけこんだ点は、少々気が咎めないでもないが」
 ジリアンは口を開いた。だが、なにを言おうとしたのかわからなくなり、ぐったりと体の力を抜いた。
 手当てをこばまないと見て、クレメンス・ウッドローは淡々と、しかし楽しげに仕事をはじめた。
 タオルを濡らしながら、ジリアンの全身を拭ってゆく。熱をもった肌にひたりと冷たい布をあてがわれると、震えがきた。
「……っ、やめて…ください…」
 胸で浅い呼吸をする青年に、微笑んでみせる。
「汗を拭くだけだ。傷に障ることはしない」
「…自分でやります、から…」
「いい子だから、じっとしていなさい」
「…ちょっと…、気持ちが悪いです…」
「それは、よく言われるな」
 男はまったく悪びれない様子で笑った。しかし、手を休める気はないようだ。
 下半身から指の間まで、くまなく清められてしまった。おかげでさっぱりしたけれど、妙な居心地の悪さが肌に残った。
「…きみの自由は、天気が回復するまで預かっておくよ。おとなしくしていなさい」
 乱れて張りついた髪を整えられた後、サイズの大きなシャツを着せられ、水を与えられた。
 自分を助けてくれた、恩人である。やさしく、親切であることも間違いない。しかし、彼の性癖には理解しがたいところがある。
 ジリアン・ロイは、たった独りで登山にきたことを、心の底から後悔した。

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