Virginity―ユニコーンの囁き(5)
当作品はBL小説です。
男性同士の恋愛感情がでてきますので、苦手なかたはスルーをお願いします。
《前回のおはなし↓》
*
…ジリアン・ロイの生活は、淡々と過ぎてゆくかに見えた。
オリンピックへ後で疲労がたまっていたから、競技を一年体むことに決めた。体をケアしながら、休みがちだった講義に出席して単位をとった。
成績も論文の内容も申し分ないとの判定をもらって、卒業を前倒しにした。
この後は予定どおりカナダを離れ、仲のよい選手が招待してくれたアイスショーのツアーにくわわる。
帰国後に卒業式というセレモニーに顔をだせば、ジリアン・ロイの大学生活は終わりだ。
周囲からは、充実した日々をすごしているように見えた。しかしジリアンの内面には、水草のように揺らめく想いがひそんでいた。
…ウィリアムの顔が見たい。
しかし時間をくれと言われた以上、答えを急かすような真似はしたくない。
皮肉なことに、屈折した情感はジリアンの表現力に更なる奥行きをあたえた。
アイスショーにむけたプログラムの練習をはじめたが、観る者の胸を切なくさせる演技だと、振付師はいたく満足げだった。
ジリアンは自らの想いを恋愛感情だと判断していたが、その実彼は人一倍奥手であり、性欲の薄い性質だった。
華やかな業界に身をおいて、持ち前の人なつこさで人々の輪の中に入ってゆける。
美貌と愛嬌を兼ねそなえた彼は、神から天分を与えられた者に見えた。
女からも男からも誘われることの多いジリアンが、誰ともつきあったことがないという事実を、ほとんどの人間が知らずにいた。
ジリアン自身の感覚からすれば、それは特別おかしなことでもない。
キスやそれ以上のことをしたいという衝動がおこらないから、やわらかな態度でことわってきた。
トロントに転校する前のできごとが、ジリアンに自覚をうながした。
テレビドラマの収録後にひらかれたパーティが、出演者の誕生日にあたっていたらしい。サプライズで大きなケーキがでてきた。
電気が消され、ロウソウが灯される。みんなが手を叩いて歌う中、隣にいた少女がジリアンにすばやくキスをした。
『好きよ』
主役のオファーがくる人気者からの、秘密めかした告白だった。人もうらやむようなハプニングだったが、ジリアンは自分がなにも感じていないことを痛感した。
その少女だけではない。
誰のことを浮かべても、抱きあったりキスをしたいとは思えないのだ。
ウィリアム・ヒューバートだけが、唯一の例外だ。
キスをするところを想像してみて、嫌ではないとはじめて思えた相手だった。
ジリアンが成長し、より多くの人間と知りあうようになってからも、それは変わらなかった。
自分は誰とも深く関われることのできない、冷たい人間なのだろう。
優等生的な演技から抜けだせないと評されるのも、そのためだろうか。
鍛えた体のラインをより美しく見せるために、肌に密着した衣装をまとってリンクに立つ。
人々から羨望のまなざしで見つめられる肉体は、いまだに誰とも触れあったことがない。
ジリアンは引き締まった脇腹を撫でてから、手の甲をじっと見つめた。
今は張りのある若い皮膚に、いずれはしみが浮かび、皺ができて衰える。
もしも、ウィリアムとそうならなかったら…。
ぼくは一生孤独なまま、誰とも肌をあわせることなく、老いてゆくのだろうか。
シャワーの雨に打たれながら、ジリアンの視線は虚空に泳いだ。
希望がないわけではないが、断られる可能性もむろんある。
ジリアンはその可能性を、半々ぐらいに考えていた。
ただ待つという受け身な行為は、不安な心に影をおとす。
明るい森林の色の瞳を持つ青年の胸を、かすかに隙間風が巡りはじめていた。
日本の都市をいくつも公演してまわってから、カナダに戻る。
トロントに帰ってきたジリアン・ロイの足は、自然にヒューバート家の方角へ向かっていた。
約束の日までには、あと一か月ほどの期間が残されている。
ジリアンの告白を彼がどう受けとめ、結論をだしたのか。
早く知りたくはあった。しかし、そのことを話しあおうと考えてから行動したのではない。
心がさまよい、勝手に体が動いてしまったのだ。
ヒューバート家近くの木立までたどり着いて、ジリアンはぼんやりと周囲を見渡した。
告白した日から一か月が過ぎて、季節は五月に変わっている。
公園の桜はもう、みんな散ってしまった。ウィリアムと花見をしなかったのは、ひさしぶりのことだ。
季節は初夏へと歩みを進め、春の女神の衣装は薄紅色から青みを帯びたラベンダー色に変わっていた。
フランスから移住した人々によって植えられたライラックが、今が盛りと花をつけている。
花の一つ一つは丁子型をした地味な姿だが、房になって咲きそろうと周囲が薄紫に染まる。
葡萄を高貴にしたような香りが満ちて、その場に立つ者を夢心地にさせる。
以前の自分なら、迷わずウィリアムを誘ったことだろう。しかし今は、彼の足かせになりたくない思いが手足を縛りつけていた。心のままに動くことができず、胸の奥が軋んだ。
こんなとき、マックス・ギュンターならどうするだろう。
あのドイツ青年なら、単純明快に言いきりそうだった。
会いたいなら会え。聞きたいなら、返事を急かせばいいじゃねーか。迷ってる暇があったら、本当はどうなのか本人に訊きゃいいだろ。
そう言って乱暴に肩をどやされそうで、笑ってしまった。
思いきりのよすぎる彼は、伊達男のコーチから「イノシシボーイ」と呼ばれていた。そのあだ名を気に入らず、大きな口をへの字に曲げていたっけ。
正反対の性格をしたユージン・カトーが、マックスに惹かれた気持ちがわかる気がした。
あれだけ思いきりよく生きられたら、人生に後悔なんてないのかもしれない。もっとも彼は、後悔なんて踏みしだいて進んでゆきそうだけれど。
マックスの言動を思いだしたことで、曇りがちだった心に薄日が射した感覚をおぼえた。
ジリアンはいきなり面をあげた。
…そうだ。ぼくはただ拒まれるのが怖くて、その先を考えたくなかっただけだ。
はっきりした返事がほしいと、ウィリアムにつたえればいい。
一生告げないつもりでいたのなら、今断られたって同じことじゃないか。
すぐに電話をしようとしたが、少し考えてからやめた。
せっかく近くまできたのだから、ちゃんと顔を見て話したい。
ジリアンは決意し、足を早めた。ポーチに立って、インターフォンを鳴らそうとした時だった。
甲高い子供の声が、開かれた窓から耳に飛びこんでくる。ウィリアムのものとわかる落ち着いた声が、それに続いた。
ガレージには見たことのある赤い車が停まっている。姉のアマンダが来ているのだ。
ジリアンによくしてくれた彼女は、五年前に結婚した。子供がニ人いて、やさしくて頼もしい若い叔父によくなついている。
「ほーら、飛行機だぞ。高い高い!」
ほがらかな声に、子供達のはしゃぐ声がいっそう大きくなる。
想像するだに、ほほえましい光景だった。しかし、ジリアンの瞳はしだいに憂いの色を深めてゆく。
誠実な彼のことだから、愛妻家になるにちがいない。
子供に惜しみなく愛情を注ぎ、必要なときは叱りもするだろう。
彼から、父親になるチャンスを奪う。…自分に、そんな権利があるのだろうか。
自分の気持ちしか、考えていなかったのではないか。
ウィリアムの未来を左右することまで、きちんと想像していなかった…。
ジリアンはふらふらと踵を返し、ヒューバート家を後にした。
彼に痛打を与えた要因は、もう一つある。
ウィリアムがここしばらくの間、野球やサッカーチームのトレーナー枠を求めて活動していた。
トレーナーの専門知識を身につけるために大学院まで進む予定だと聞いていたから、本来ならあわてて就職活動をしなくともよいはずだ。
ウィリアムはなぜ、急に方針を変えたのだろう。
同じ疑問をガールフレンドのソフィアも抱いたらしく、ウィリアムと話しあいを持ったそうだ。
その末に、ニ人は将来のヴィジョンが噛みあわない事実が判明して、別れたという。
それをジリアンは、当人たちからではなく友人らを通して知った。
なにか、話してくれればいいのに。
そうは思ったものの、ソフィアとの間にひびを入れたのが自分のせいである可能性も高い。
電話で訊くと、ウィリアムは明確にそれを否定した。
しかし、自分の決断が周囲の人間に様々な影響を与えていることは否定できなかった。
びょうびょうと唸る風が、帽子に隠れない耳から体温を奪い取り、足どりをもつれさせる。
今年の九月でニ十ニ歳の誕生日を迎える予定のジリアン・ロイは、フィギュアスケート競技を休養している。
表向きは大学を卒業するためだが、彼の悩みはもっと深い場所――プライべートな部分に存在していた。
その傍らに、濃い褐色の髪と目を持つたくましい青年――ウィリアム・ヒューバートの姿がない。
ジリアンは、たった独りでカナディアンロッキーの国立公園を訪れていた。
最果てを北極海に接する、カナダ北部の雪解けは遅い。
七月に入るとようやく施設の利用が許可され、束の間の夏の輝きを満喫しに観光客がやってくる。
五月末は、登山のシーズンにはまだ早い。
だが、絶望を囲ったまま家でじっとしていることもできなかった。
まばらに花の咲く原生花園と湖を抜けて、ジリアンはロッキー連峰のうち、軽装でも登ることができる初心者向けの山を選んだ。
体力にはある程度自信があったけれど、スケート以外のスポーツをするのはひさしぶりだったからだ。
頂天に雪を頂く雄大な山々は、雲の波を貫いてそびえたっていた。
今のジリアンには登ることの叶わぬ山々は、昨季手に入れられなかった金色の輝きにも似て、見つめるほどに胸をかきむしられる。
青く萌える草木の匂いが強く風に溶け、ジリアンの身裡を痛いほど洗い流してゆく。
澄んだ陽光は強く、サングラスをしていても瞳の奥が疼く。
風が強くなった。
ジリアンは背中の荷物からセーターをだして着ると、ふたたび歩きはじめる。
その彼を、着かず離れずの距離を保って追う中年の男がいた。
トレッキングシューズはきちんと手入れされており、いかにもべテランといった様子である。
自らの思いに沈むジリアンは、男の存在に全く気づいていなかった。
胸の裡と体の外側で、きりきりと寒い風が舞う。
十年もの間、ウィリアムのことが好きだった。
たかが人生の、七分の一にも満たない期間だ。
しかしそれが、ジリアンにはとってはすべてだった。
山に行く直前、ジリアンはソフィアに会っていた。
装備を整えるため買い物をしていたら、向こうから声をかけられたのだ。
謝るジリアンに、彼女は怒っていないと言った。
『そんな大荷物を持って、一体どこへ行くの。ウィルは一緒じゃないの?』
心配する彼女を、振り切るようにカフェを出た。
ソフィアはいい子だ。ウィルは彼女といるほうが、幸せになれる。
悲しいことばかり考えていると、人は間違った道へ踏みこんでゆく。
頬を打つ雨に、ジリアンははっとした。
気候が急変するのは、山ではよくあることだ。雨具は一応、持ってきている。しかし足元がぬかるみはじめたら、これ以上は登れない。
帰りのルートをとろうとした時、彼は自分が獣道に入りこんでいたことに気がついた。
焦りを嘲笑うように、大きくなる雨滴が容赦なく全身を叩く。
簡素なレインウェアはすぐに水がしみ通り、ちっとも役目を果たさない。
顎から生温い水が滴るのは、体温を持っていかれたせいだ。
ジリアンは震えながら、雨宿りのできそうな木陰を探した。
とにかく休んで、雨がやむのを待とう。
急いで大きな木の根元を目指した時、ずるりと足元の道が崩れ落ちた。
「あ――!」
休養中のフィギュアスケーター…ジリアン・ロイは、広大なロッキー山脈の西部で消息を絶った。
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