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10万円の給付金から、9万円の寄付をした話

やらない善よりやる偽善。偽善を積んで徳トクポイントを溜めると、来世で使える能力と交換できます!! みたいな気持ちで生きている。そんなアホな自分が好きです。

献血には理由が要るのか

 毎年、大晦日には献血に行く。会話の流れで「大晦日に献血に行ったんですけどね、その時……」と面白い看護師さんの話を振ろうとしたら、「なんで献血なんかすんの?」と言われた。職場の飲み会でのとりとめのない会話が引っかかっている。
 大晦日に献血に行くことを数年間続けていた時期がある。神戸市民の方はご存知だろうか。ミント神戸という旧神戸新聞社のビルの15階に、広くてきれいな献血ルームがある。献血をするとアイスがいただけて、大晦日等の特別な場合は、さらに記念品と言って、乾燥うどんや昆布茶がもらえる。広くてきれいな場所から海側へ広がる景色を眺めつつ、アイスを食べる。帰り道は、いつもなら混雑する三宮センター街を、年の瀬の人込みの少ない状態で楽しむ。そのために行っている。
 年末年始は、帰省などで献血の協力者が減るため、血液の確保に難儀するらしい。逆に、大晦日は仕事がない私にとって、昼間から出かけやすい。献血には、前後の検査や休憩時間を見て、1時間くらいはかかると思っておいた方がよい。何かのついでの空き時間、ではうまく時間を捻出できないことが私には多かったため、献血に行ける日にするというよりは、行くと決めた日がある方が楽である。それが私には大晦日だった。偽善者ぶっているとか思われるのも恥ずかしいので、「献血で善行を積み、今年の厄を落とすのだ」ということにしている。それでいい。今年もいいことをした! 来年もきっといい年になるぞ! と思って年末年始を過ごしたら、幸せではないか。

 とまあ、献血に行く理由を考えてみたのだが、そんなことのために? と思われただろう。その通りである。アイスなんてその辺で好きなものを好きに買えばよい。前述したのは単なる口実というか照れ隠しに近い言い訳であって、やっぱり私は人助けをしたいのだ。自分に負担のない範囲で。誰かに感謝や賞賛の言葉を述べられながら。残念ながら私は、誰も見ていなくてもいいことをしますというタイプの人間ではない。来世に期待してほしい。
 私が持っているのは、真の人助けの心ではない。滅私、自己犠牲、強い志で誰かを救うことを仕事にしている人はたくさんいるし、仕事ではなくそういうことをしている人もいる。そういう人の活躍だけで、全ての困っている人が救われるのなら、私たちは何もしなくていい。自分の勤め先に行って、仕事をしていればいい。食べて、仕事して、風呂入って、給料アップにつながりそうな勉強をして、寝て、それでいいだろう。
 でも現実はそうではない。
 人助けの精神があろうがなかろうが、何か行動した方が救われる人がいる。「献血お願いします」のプラカードを持って街頭で声を出している献血ルームの職員さんと擦れ違いながら、もっと協力できたらな、と思う。行きかう人々それぞれに、時間の有無とか、薬の服用状況とか、海外渡航歴とか、献血ができない理由はたくさんある。一般的に女性が断トツ引っかかるのは体重制限で、私の場合は全血献血なら200mlしか協力できない。(注:全血では400mlの献血が推奨されている。理由は、輸血される人の体の負担を軽減するためである。1200mlの輸血が必要な人に、200ml×6人分を輸血するよりも、400ml×3人分でまかなった方が体内に入る「異物」の種類が少なく済む。※間違っていたらご指摘をお願いします)

 輸血を受けたことがある人は、いるだろうか。自分がなくても、家族や友達に範囲を広げたら、ひとりやふたり、見つかるのではないか。その血は誰かがくれたのである。人の受精卵と、何かしら哺乳類の細胞を使って、移植に使う臓器を作ることさえできるこの時代に、人の血液はまだ代替物を人工的に作り出すことができないのである。驚きだ。血液は、人工的には作れない。
 私の祖父が、癌の手術を受けた時にたくさんの輸血をしてもらった。あなたと、家族と仲のいい友人に範囲を広げて、輸血を受けたことがある人は、ひとりもいないだろうか。結果的に輸血しなかったけれども輸血の準備も必要な手術を受けたことのある人はいないだろうか。あなたの母が、妻が、姉妹が、娘が、出産するときはどうだろうか。産科は日本の医療現場で輸血が行われる度合いが高い科のひとつである。自分や身近な家族に産科にかかる予定がなくても、癌は日本人の死因の上位である。あなたも、あなたの家族も手術を受ける日がくる可能性は高い。
 いつか、自分と大切なひとに返ってくるのだと思うと、やるよね、と私は思う。だから、何人かの同僚に「なぜ献血なんかするの? 趣味?」と言われたことが、頭にひっかかっている。彼らの考え方が悪いとか間違っていると言っているのではない。なぜ献血するのか、話題にして確認する必要があるのか、と思ったのだ。

誰かの役に立ちたいが、難しい

 小学生の時、私は医者になりたかった。ブラック・ジャックのような人間を愛する心に憧れて。中学生の時、医者になる=医学部にいくには、勉強ができることに加えてお金が必要で、現実的には医者の家の子でないと難しいのだなと思った。高校生の時、裁判官になろうと思った。女性の裁判官が少なすぎる我が国をなんとかしなければと、本気で思っていた。志だけは高いまま大学の法学部に進学した。しかし、周囲の優秀な同級生をみて、自分には裁判官どころか弁護士も無理、司法書士も無理だと悟った。私は凡人である。入学直後の4月後半だった。早めに現実を知れただけ幸せだった。
 そしてリーマン・ショックの年に就職活動をして、普通のオフィスワーカーになった。だが、一部の優秀な人しか、誰かを救うことを夢見てはいけないわけではないだろう。

人助けにも向き不向きがある

 話変わって、ヘア・ドネーションというものがある。「髪の毛の・寄付」である。またまた癌の話になる。体力的にも辛い抗がん剤治療だが、特に若い人や女性の心にダメージを与えるのが副作用による脱毛である。まだ、薄毛や頭髪脱毛が現実的ではない年齢で、頭髪がなくなるという外見の変化でショックを受ける人がいる。ましてや小児がんにかかる子どもたちの同級生は、「抗がん剤治療の副作用」を理解できない場合もある。悪気なく、心無い言葉を口にしてしまうことだってあるだろう。しかし、悪気がなかったからといって、言われた人の心が傷つかないわけではない。そこで、医療用ウィッグの出番である。医療用でなくおしゃれ用であろうと、人毛のウィッグは自然で使いやすいものだ。この材料を寄付する活動が、ヘア・ドネーションである。
 私も、一度だけやってみようかなと思ったことがある。結婚式でアップスタイルを作るために髪を伸ばしていた時のことだ。元々、ショートカットが好きで、結婚式のために毛を伸ばすのを面倒くさいと感じていた。まとめ髪ができる程度の長さに伸びるまでの中途半端な時期がうっとうしくて嫌なのだ。その髪が束ねやすくなったころに、結婚式後はヘア・ドネーションをしてみようか、と思って調べてみたのである。即、断念した。

 ヘア・ドネーションの条件:切り取った髪の長さが31cm以上であること(※寄付活動をしている団体により若干差がある)

 自分の髪を触ってみるまでもなく分かる。頭皮から毛先まで測ったところで30cmを少し超えたくらいしかない。31cmを切ったら、ほぼ坊主である。恐らくは結婚式で何があったんだと周囲に心配される。実際にヘア・ドネーションをした人のカット直前の写真を見ると、言い方は悪いが、貞子のモノマネを持ちネタにできるくらい髪の長さがあるのである。結婚式のために、10cmちょっと伸ばしただけで、毎日のシャンプーからドライヤーを苦行のように感じていた私には到底無理だなと諦めて、結婚式の翌日にヘアカットの予約をいれた。

やれることだけでもいい

 ヘア・ドネーションの話だけで長くなってしまったが、要するに「とりあえず自分が苦しくなくできることだけやればいいじゃん」と言いたい。ヘア・ドネーションは、楽しみながら髪を伸ばせる人がやればいい。返礼品がおいしいから、ふるさと納税をする、でもいい。たまたま目の前に困っている人がいて、簡単に助けられることなら助けてあげればいい。無理なら無理と意思表示をすれば、他の人が助けることもできる。
 道案内でも、食券の販売機の使い方でも、日替わりメニューに豚肉が使われているか確認するのでも。白杖の人の手引きだって、そこそこ元気そうなお年寄りに席を譲るのだって、無理をしてまでやる義務はないのだ。やるべきだ、とは個人的には思っているけれども、他人に強制できることではない。そしてまた、「無理である理由」を他人に説明する必要もない。説明してもいいが、人に言いたくない事情だってあるだろう。(※自分が配慮してもらいたいときはオープンにした方がスムーズな気もするが、どうしても言えない、言いたくないこともある)
 困っている人がいて、自分が助けてあげるのに負担がない状況ならとりあえず助けましょう。まずはそれくらいでよいじゃないの。せめてそれくらいなら、意識のどこかに置いておくこともできるでしょう。と、思って生きている。しかし、朝の通勤中などはピリピリしているので、他人に優しくしてあげられる度合が低くなっているなあと、自分のレベル感も理解している。

金を出すのは、簡単で手っ取り早い

 単純にお金を渡すという寄付の話をしよう。
 コロナ禍である。目の前とは言わないが、顔見知りレベルの範囲には困っている人がいる。ものすごく大勢。近所の飲食店、小売りのお商売をしてる人、独立したばかりの美容師さん……。
 全員に、お金を渡して助けてあげることはできない。私がビル・ゲイツでありさえすればできたかもしれないが。しかし、10万円を国からもらった範疇ならばやれるのではないか。10万円まとめて、気になっていた基金などの推し団体に突っ込んだ人をSNSでは複数見かけて、立派だなと思った。だが、私には10万円という金額よりも、ひとつだけ選ぶということのハードルが高く、3万円×3団体に寄付をすることにした。残りの1万円は神頼みをした神社さんへである。というか、そもそも順番が逆だ。詳しくは下記記事にまとめている。

短くまとめると、
1.マンションの騒音被害に悩んで、京都の縁切りで有名な安井金毘羅宮へ願掛けに行き「解決の暁には10万円を」と祈る(緊急事態宣言発令前)
2.7日後に、敵が翌月末までに引っ越すことが決定。
3.どういうわけか、その日から敵はほぼ留守になり、平穏が訪れる。
4.更に約束通り翌月末に敵が引っ越す。
5.お礼参り10万円行かなくては!!?(緊急事態宣言解除前)
である。

 10万円とは大きく出たものである。なお、願掛け時点で3千円程お賽銭している。話は逸れるが、自分や家族の幸せを真剣に祈るのに、5円や10円はさすがに失礼すぎやしないかと私は常々思っている。さて、しかし、このコロナ禍の中、果たして神社さんというか、神様に10万円お渡しするべきなのだろうか。神様も、神社さんも、その10万円がなくても困らないのじゃないか。一方、今すぐ数万円があれば息をつける人がいるはずだ、と思ったのだ。宗教法人で税金が免除される神社さんよりも、消費税はかかるわ、営業自粛しなければリンチされるわ、交渉しなければテナントの家賃はかかりつづけるわ、の飲食店経営者に9万円が回った方が経済的な効果は大きいと言えないだろうか。
 6月、お礼参りに出かけて神様に謝った。約束違えをして申し訳ありません。神様にお礼として1万円をお渡しします。残りの9万円分、誰かの為に寄付をしますのでお許しください。これが今回、9万円寄付をしてみることになったきっかけである。全く勝手で失礼だと、真に信仰心の篤い人からは叱られるだろうが、神様はお怒りにはなっていないようで、今のところ私はまだお守りいただいている。

寄付先の選定が難しい

 3万円×3団体くらい、すぐに選定できると思ったのだが、なかなか難航した。今回初めて、銀行振り込みやクレジットカードをつかった寄付というものをするにあたって、所得控除が受けられることを知った。確定申告が必要になるが、特定のNPO等に寄付をして、領収書を手に入れればよい。というわけで、まずは対象団体は「所得控除につながる団体」ということにした。打算である。自己都合である。繰り返しておくが、真の人助けの精神なぞ、私にはないのである。すべては自分の得に、あわよくば自分の徳になればという考えである。常に来世に期待するスタイルである。
 1団体目は、特に悩まずに決定した。視覚障碍者のための情報提供活動をしている社会福祉法人日本ライトハウスさん(大阪市鶴見区)である。3年ほど前に、「点訳・音訳ボランティア」の説明会で訪問した。(このボランティアは、平日日中の活動が必要で、私は全くお役に立てそうになかったのだが活動内容に興味を持った)
 2団体目。いきなり難航した。気になる団体はいくらかある。最近の活動状態がよくわからないところを避けたり、所得控除の対象になるかわかりにくいところを避けたり、活動内容が同じなのであれば、自分の地元などを選びたい。というわけで、認定NPO法人フードバンク関西さん(神戸市東灘区)を選んだ。体型の割りにめちゃくちゃ食べる私である。血糖値が下がっていると、難しい話は頭に入ってこないし、些細なことでイライラしてしまう。誰でもお腹いっぱいになることができれば、小さな諍いも減るだろうと思って、この団体を選んだ。

 本筋とは関係ないのだが、選定作業の中で広報の大切さを痛感する。素人がHTMLタグを手打ちしていた200X年代のようなWEBサイトでは、なかなか必要な情報までたどり着かない、というか、見ようという気が起きない。現在進行形で精力的に活動している雰囲気が出ないのである。身も蓋もない言い方をすれば、金を集めるのにも金と技術がいる。リンクのミスも致命的。寄付の仕方が複雑すぎるところもパスである。それから、珍しいところとしては候補に挙げた女性支援系の団体は、寄付者の審査があった。活動の主旨と合わない人からの寄付は受けないそうだ。組織の方向性をぶれされないためだろう。これも一理あるし、活動資金がひっ迫していないのだろう。というわけで、パスした。

 3団体目。正直なところ、まったく決められずに、1か月ほど無為に過ごしてしまった。2団体目までを選んで、自分のなかに基準ができてしまい、3回目で今更、失敗はできない。寄付に失敗も成功もないだろうと分かってはいるが、何せ、2団体目を選ぶときに、排除した団体が相当数あるので、それを回避すると同時に、同じ要件に該当する他の団体も回避したいのだ。なかなか難しい。しかも自分の儲け話ではなく、言っちゃなんだが、自分が対価を得ずに金を払うだけである。給付金の10万円があるとはいえ、自分の給料からしたら9万円の寄付はなかなか覚悟がいる金額だ。しかし、9万円を人の為につかいます、と神様に約束したのに、まだ6万円しか使っていない。これはいけない。ということで、再び真剣に選び直しをして、公益社団法人全国被害者支援ネットワークさん(東京都文京区)を選んだ。
 前述のように、裁判官になりたいと思っていた。そのきっかけのひとつとして、犯罪被害者家族が、加害者を守る司法の批判をしているのをテレビで見た記憶がある。残念ながら私は自分の能力や仕事でこういった人たちを支えることはできなかった。そんな私にもできることは? そう、金を払うことだ。
 30歳を超えてようやく、寄付で、夢を追うことができるのだと知った。犯罪被害者支援には今でも非常に興味がある。寄り添う人になりたい、カウンセラーは資格がいるから、話を聞くボランティアだけでも、と思ったことがある。でもできないのはわかっている。私のメンタルでは、人の苦しみに寄り添いすぎるときっと自分の方が参ってしまう。生きる死ぬの関わらない話でもそうなので、犯罪被害者の話を親身になって聞き続けることは多分できない。社会的に誰かが果たさなくてはいけない使命は、私ではない誰かの使命なのだろう。ならば、私が解決したいと思っている社会問題のため、私には何ができるか? 金を払うことである。

金を出すのが、私には一番簡単だった

 などと書いているうちに、今年の7月は台風も来ていないのに大変な雨が降り、豪雨災害に巻き込まれた地域が多数あった。なぜか地域の小学生が課外活動としてがれき撤去のボランティアに出されているのを報道で見た。おかしいだろう。子供が、破傷風等の感染症を適切に警戒しながら作業できるか? ましてやこの暑さのなか、コロナ感染予防のマスク着用である。(コロナがなくても、泥が渇いた粉塵の舞う水害被災地ではマスクは必須だが)
 体力がない、精神的に繊細である、持病がある、そもそも子供である。こういう人は、がれき撤去や被災家屋の片づけのボランティアをしなくてもよい。その人自身の安全と健康を守りながら活動できないからだ。できないこと、危険なことをかなりの無理をしてでもやってみろというのはボランティアの精神ではない。1日ボランティアをすることで、体力の回復に1週間寝込むようではだめだ。やりたいならやればいいと思うが、被災地で寝込んでは迷惑になる。
 こういった項目で、自分について考えてみよう。そう、私は……?
 筋力がなく身長も低い、やせっぽっちである。重いものや大きいものを運べないので、職場ではいつも男性に助けてもらっている。喘息持ちで、ハウスダストや有機溶剤等が側にあると途端に体調が悪くなる。
 もうこれで十分だろう。これ以上言わなくても、こんなの被災地支援に来られても……である。もしも避難所運営等で事務的な作業を任せてもらえるのなら役立つかもしれない。効率的な料理は得意だから炊き出しにも自信がある。しかしながらそのような人材は、当地の行政から確保されるだろう。
 要するに、私にできることは離れたところからできる支援で、その一番簡単な方法は金を出すことだ。それから、金を出すように人々に促すこと。幸いにして私たちは、ツイッター等の発信機能を持っているし、私はnoteを書くことができる。

金を出すために、金を稼ごう

 今の私には、職場の給料以外の収入はない。でももし、このnoteや、他のことで毎月、給料プラスいくらかをコンスタントに稼げたら、極論、それはそのまま誰かの為に使える。自分の生活に一切のマイナスは生じないのだから。
 というわけで、コンスタントな投げ銭をいただけるようなnoteが書けるようになることを、2020年下半期の目標としたい。宣言するのはタダ、そして言霊は信じる。もちろん、感想だけでも頂戴できるとたいへんありがたい。なお、占いで金運がいいと出た日に買ったロト7は3口とも外れました。

追記:金を出すのが一番だけど「今既に持っている物」の寄付も実はできます。

さらに追記:寄付金控除で9万円のうち3.5万円程返ってきました。

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