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それは本当に当事者たちの声ですか?

昔はなんで日本人ってこんなに社会や政治に関心無いのかって不満に思ってたけど、社会とか大き過ぎて、本当はフィクションで、完全に理解するとか誰にも不可能なんだ。
だから日本人はマクロな話は苦手で、半径5mくらいの世界で起こる偶像劇が好きなんだと思う。
社会小説よりも私小説。

空想好きな私は、昔はそれがスケールが小せぇなぁ、と思ってて嫌だった。
でも最近は日本の私小説の方が生身の人間を「そのまま」描いてて、すごく現実的で正直なのではないかと思うようになった。

欧米かーの社会小説は、貧困とか犯罪とか社会問題を考えようとする、意識高い系のもので、それはそれで大事なことなんだけど、本当は「社会」なんて幻想である、てことを念頭に置いておかなければならないと思う。

欧米かーは昔から意識が高かったから、下層階級の弱者のことを気遣うエリートが多く、大半の社会小説というのはエリートの立場から弱者を考察し、世直ししていこうとするものだ。
つまり弱者本人たちから見た「社会」ではない。だからリベラルの思い描く理想は当事者たちとズレたものとなっていることが多い。

子供のためと言いながら、良かれと思って自分のエゴを押し付けている親のようなもので、親と子供は本当は別人格で、どこまでいっても「個人」でしかないことを忘れてはいけない。

トランス女性のトイレ問題だって、いわゆるLGBT団体が「トランス女性も女子トイレを使えるようにしろ!」と要求しているが、「実際の」トランスジェンダーの人々で自分の性別のトイレを使うことにこだわっている人は3割もいないらしい。
7割の当事者は「私はそんなこと求めていない、ありがた迷惑だ」と言っている訳だ。

だから「パターナリズム」という言葉が生まれたのだと思う。
きっと欧米キリスト教社会だって、「良かれと思って」弱者の世話を焼く「面倒見のよい」君主が多かったからこそ、「総体としては」人権環境が良かったんだと思う。

だけど最近のトランストイレ問題のようなお節介が多々起きていたからこそ、キリスト教が好けないのかもしれない。同じことが繰り返されてるんじゃないかと思う。

そこにきて、日本の私小説は弱者本人が書いたものが結構ある。
太宰治は日本では弱い自分を慰めるために読む人が多いようだが、そもそも彼が「弱く」なったのは幼少期の性的虐待によるところが大きいし、本人もそれを訴える言葉を多く残している。
日本ではそんな「意識が高い」捉え方をされていることはほとんど無いが…。

欧米かーはもうそろそろ社会小説はやめて、弱者当事者たちが私小説を書くことを、受け入れなければならないと思う。

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