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寝落ちの幸福度を考察する

復職まで一週間を切りました。

今日は、ジムで運動し、帰宅がてら焼鳥を一本だけ購入。自宅で焼鳥を温めて、チェアに座って読書しながらパクパク。そしてそのままウトウトと昼寝。嗚呼、コンタクトが乾いてしまう。なんて思う白昼夢。目覚めると日は暮れ、目の前には読みかけの本、右手には焼鳥が乗っていたアルミホイル。


正直言って、とても幸せだ。

それは、閃光が飛び脳髄を刺激するような強烈な幸せではなく、意識が半分この世ではないところにあるようなうっとりとした幸せだ。


休職期間は、いろんなことに気づいた。

まず、私は寝るのが本当に好きだなぁということ。読書しながら寝落ちすることは、お金を払って時間を使ってお出かけをする五百倍くらいの幸福感をもたらすこと。

ここ数年、仕事も遊びも全力で容量よくやっていた。成長して、効率よく物事をこなせるようになった先に、たのしいことを疲れず全てできるような女性像があると思っていた。そしてそれこそ、私のなりたい姿なのだと思い込んできた。

だけど、このように休んでいるときの幸福感ったら無い。起きてるのか寝てるのか判別できないような、半目を開けて時間を過ごすのは、内側からじわじわくる幸福感だ。私は、こちら側の人間だったのだなぁと改めて気づくのである。


思えば昔から、寝る時間の多い子どもだった。中高では、授業中もよく寝た。隣のクラスの男子が、よく授業中に背中を丸めて寝ていて可愛いと言ってくれてから、より張り切って寝るようになった。涎を垂らして寝てアミラーゼというあだ名がついたこともあった。机の上に、大量の教科書の要塞を作って寝るので、友人には面白がられた。

そんな私が、たくさん働いてたくさん遊ぶ、そんな『リア充モデル』で幸福感を得られないのは当然だったのかもしれない。

あれはあれで楽しかったし、アドレナリンが分泌されて、頭が冴え渡って、ワクワクして、ルンルンする、あの時間ももちろん好きは好きなのだ。

だけど、それだけでは、休みたくなってしまうんだな、とわかった。


とはいえ、一日中寝ていたり、何もせずに布団にいると、それはそれで辛い。自己肯定感が下がるし、身体はだるいし、世の中はうざいし。

だから、今日はジムに行って、帰宅して、読書しながら思わず寝落ちできたことが私の幸福度を上げたのだとおもう。

つまり、ジムのように、ちょっと良い感じのことも実施すること。

そして、寝ようと思ったわけではない時間に寝ても、何も生活に支障がないこと。予定がパツパツに入ってなく、何の締切もないこと。


働き出すと、今の状況とまた少し変わって来るとは思う。それでも、今日のこの寝落ちの幸福感を忘れずに、抱きしめておきたい。それで、意図的な空白と、意図的なだらしなさを持って、この幸せな寝落ちをまた意図的に作り出したい。


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