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カール大公の恋8 ウィーン革命


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叶えられなかった約束③

ウィーン革命


7月革命

7月革命

 1830年。フランスに7月革命が起きた。
 ブルボン王朝のシャルル10世は、孫のアンリに譲位する為に退位すると宣した。だが、この旨記した書状を託した相手が悪かった。
 親戚のオルレアン公ルイ・フィリップに預けたのである。彼の兄、ルイ16世のギロチンに賛成票を投じたエガリテの息子に。
 立法府議会でその手紙を読み上げたルイ・フィリップは、故意に国王が、孫を王位継承者に指名した部分を省いた。

オルレアン公の演説

 3日間の混乱を制し、フランスに王制が戻った。王位に就いたのは、オルレアン公ルイ・フィリップだった。

オルレアン公を讃えるラファイエット
オルレアン公を讃えるラファイエット


 ブルボン一家は、アメリカの定期船に乗せられ、行く先もわからぬまま、出港した。
 辿り着いたのは、イギリスだった。

 2年後。
 ブルボン家の亡命「王朝」は、王太子妃マリー・テレーズの母アントワネットの実家、オーストリアの保護を求めた。
 マリー・テレーズの従兄であるオーストリア皇帝は、フランスの亡命王朝を迎え入れた。
 一行は、プラハのフラドシン宮殿に居住を許された。

オーストリア皇帝フランツ
オーストリア皇帝フランツ


 1835年、オーストリア皇帝フランツが崩御した。新皇帝の戴冠式にフラドシン宮廷が用いられることになり、暫時、明け渡すことになった。
 これを機に、ブルボン家は、ゴリツィア(イタリア半島の東の付け根の町。この時代はオーストリア領)に居を移した。

 翌年、シャルル10世が亡くなった。
 ゴリツィアの、正統ブルボン家の家族は、マリー・テレーズとその夫、二人の姪ルイーズと甥アンリの4人だけになった。


愛娘の結婚


 アウグスティーナ教会の鐘が、ウィーンの空に、高らかに響き渡る。それを待っていたかのように、いっせいに、礼砲が鳴り響いた。
 今日は、カール大公の長女、マリア・テレジアの結婚式だった。
 妻は、娘が13歳の時に亡くなっている。若くして身罷った妻に、娘のこの晴れ姿を見せてやりたかったと、カールは思った。

カール大公息女マリア

 新郎は、両シチリア王、フェルディナンド2世。スペイン系のブルボン家の血筋を汲む。
 聖歌隊が「テ・デウム」を歌う中、新郎新婦は、祭壇から礼拝堂に続く、長い廊下を歩いていく。

 27年前、この廊下を、今日の新婦の父カールも、同じようにゆっくりと進んで行った。
 あの時、彼が腕を貸していたのは、自分の妻となった女性ではなかった。
 彼が腕を貸していたのは、ナポレオンの妻となった姪だった。彼は、ナポレオンとマリー・ルイーゼの代理結婚で、新郎代理を務めたのだ。

 「父上! まだ、こんなところに! お召し替えをしなければなりません。早く早く!」
 息子のアルブレヒトが迎えに来た。新婦マリアの、ひとつ、年下の弟である。

 結婚式に続いて、祝宴が催されることになっていた。
 急いで着替えて、ホーフブルク宮殿へ向かわねばならぬ。
 ……こんな時。
 カール大公は思った。
 ……いつもなら、急かしに来るのは、マリアだった……。
 娘を嫁に出したのだという実感が、ひしひしと胸に迫ってきた。寂しさがつい、口からこぼれる。

「マリアの役目は、お前に移ったというわけだな、アルブレヒト」
「父上。甘えてもらっては、困ります。私には私の任務がございますゆえ。弟たちも同じです」
 今年20歳になる青年は、尊大に答えた。
 語調を和らげた。
「ですが、もう2~3年もすれば、カロリーネがお役に立てるでしょう」

 下から2番めの娘、マリア・カロリーネは、今年でやっと12歳だ。先の長いことだと、カールは思った。
 アルブレヒトは、父に倣い、軍務に就いている。その軍歴のごく初期の時期に(わずか13歳だった)、大佐に任じられた。

 あまりにも早すぎる昇進は、息子の為にならなかったのでは、と、カールは思う。今からでも遅くはない。少し、苦い経験をさせる必要があるかもしれない。
 だって、は、あんなにも謙虚で素直だったのだから。

 カールは目を閉じた。
 まぶたの裏に、12歳から軍務を志し、長い間、軍曹だった青年の姿が浮かんだ。

ライヒシュタット公

 皇帝の孫であったにもかかわらず、が大佐に昇進したのは、21歳の時だった。
 その死の、2ヶ月前のことである。

 そういえばマリアは幼い頃、の馬車に、しきりと乗せてもらいたがっていた。
 新年から、皇妃の聖名祝日(本人が命名されたのと同じ名の聖人の祝日)までの間の、休みの時期。マリアは、毎年のように、の馬車に乘りたがっていた。
 は、幼い日のマリアの、憧れの人だったのだろうか……。

 ナポレオンの代役を務めた、この教会のせいだろうか。
 今日は、のことが思い出されてならない。ナポレオンの息子。皇帝の孫でもあった、あの優美で、もの憂げな青年のことが。
 自分たちは、彼の可能性を、押しつぶしてしまったのだろうか……。

 礼拝堂を出ると、カールの少し先を、老夫婦がゆっくりと歩いていた。
 二人とも、ひどく古ぼけた礼服を着用している。きらびやかな服装の参列者の中で、二人のいるところだけが色彩を失っているようだった。
 妻は、ぴんと背筋を伸ばし、それでもまだ、若々しげな歩き方をしていた。
 だが、夫のほうが、いけなかった。
 後ろから見てもわかるほど、彼は、痩せこけていた。まるで、棒っきれのようだ。背を丸め、足を引きずるようにして歩いている。

 アルブレヒトも、先を行く夫婦に、気がついたようだ。
「アングレーム公ご夫妻※が見えているようですね。新郎は、ブルボン家ゆかりの方だから、イタリアゴリツィアから出ていらしたのでしょう」
「アングレーム公は、お体が悪いのか?」
 思わず、カールは尋ねた。
 アングレーム公は、カールより、4つ年下の筈だ。しかしこれではまるで、彼のほうが、ずっと年上に見える。
 アルブレヒトは首を傾げた。
「さあ、どうでしょう。特に聞いておりませんが」

 カールは傍らの息子アルブレヒトに介添えをするよう、命じようと思った。
 その時、彼は、気がついた。
 夫の手が妻の後ろに回り、その背を愛おし気に撫でるのを。
 息子と肩を並べ、無言でカールは、歩き続けた。

 5年前、マリー・テレーズが、ウィーンに立ち寄ったのを、カールは知っている。その後、3年間、プラハにいたのも。
 プラハは、カールの暮らしているテシェンに近い。行こうと思えば、いつでも行けた。
 しかし、カールは、一度も、彼女に会いにいかなかった。
 彼女の夫、アングレーム公にも。

 今まで、従妹に会いに行かなかったのは、8年前に亡くなった妻、ヘンリエッテに気遣った為ではない。
 それは違うと、カールは思う。
 亡くなった妻との間には、5人の子がいる。妻は、猩紅熱に罹った子の看病をしていて自らも感染し、亡くなった。
 彼女は、プロテスタントだった。厳格なカトリックであるハプスブルク家が初めて迎えた、異教徒の配偶者だ。彼女をハプスブルク家代々の墓所カプチーナ礼拝堂に葬るには異論が出たが、兄の皇帝の一言でカプツィーナに葬られた。
 今でもそこで、カールを待っていてくれているだろう。

 兄の皇帝は、弟が自分より有能であることを知っていた。自分に不満を持つ廷臣達が弟の才能を惜しみ、長男である自分と挿げ替えたいと思っていたことも。
 そしてまた、ナポレオン……皇帝の婿となった男……が、カールを取り込もうとしたことも、知っていた。1805年、ウィーンが陥落すると、ナポレオンはシェーンブルン宮殿へ彼を呼びつけた。
 しかし、人たらしの誘惑に、カールは屈しなかった。今に至るまで彼は、兄の皇帝への忠誠を守り続けている。

 皇帝は、弟に感謝していた。感謝というより、深い愛と肉親の情を抱き続けた。その愛情は、長く独身を貫いた弟が、とうとう迎えた年若い妻ヘンリエッテにまでも及んだ。彼女の死んだ後でさえ。

 ヘンリエッテは家族だった。カールだけの家族ではない。彼が忠誠を誓い続けた皇帝を長と戴く、ハプスブルク家の。

 違う。
 何があろうと、彼女との絆は、びくともしない。
 それならなぜ、自分は、フランスから亡命してきたマリー・テレーズに、一度も、会いにいかなかったのだろう……。

 カールは、彼女を、ライヒシュタット……フランツ……に会わせたかった。
 ナポレオンと、姪であるオーストリア皇女との間に生まれた息子に。
 父の国フランスと、母の国オーストリアの間に揺れる彼に、マリー・テレーズなら、的確な助言を与えられるのではないかと思ったのだ。フランスのルイ16世を父に持ち、オーストリアから嫁いだマリー・アントワネットを母に持つ彼女なら。

 ナポレオン生存中から、カールのもとには、ひっきりなしに、密告書が届けられた。
 ブルボン家が、ナポレオン2世ライヒシュタット公への刺客を差し向けた……または、暗殺計画がある……、というものだ。

 カールは、ナポレオンの「親友」と見なされていた。ナポレオンの親族をはじめ、ボナパルニスト達は、帝王の没落後もずっとカールを頼っていた。というか、彼しか、繋ぎはいなかったのだ。
 ウィーンのとばりで覆われた、ナポレオンの唯一の「正統な息子」との間の。

 ブルボン家は、フランツを警戒していたという。四半世紀以上にも及ぶ革命とその動乱の時代をなきものにしたブルボン家は、多くの不満を買った。不満分子は共和派や帝政派に結び付き、ナポレオン2世擁立を望んだ。
 一方で、子どものできなかったマリー・テレーズは、甥と姪を心から慈しみ、7月革命後の今でさえ、甥アンリの王位継承を望んでいる。確かに彼女にとってフランツは、憎むべき王位簒奪者の息子であり、邪魔者だった。

 ……マリー・テレーズは、ナポレオンの息子の死を望んでいたのか。

 それでもカールは、彼女をフランツに会わせたいと思った。
 それほど、二つの国の狭間で思い悩む青年の姿は凄絶だった。

 結果として、彼女は、間に合わなかった。
 マリー・テレーズが、オーストリアに来たのは、1832年10月に入ってからのことだった。
 フランツは、その年の、7月に、亡くなっている。
 まるで、彼が死ぬのを、待っていたかのようなタイミングだった

 テシェンに隠居しているカールの元に、時折、アングレーム公夫妻の穏やかな暮らしぶりが、伝わってきた。
 夫妻は、子どもに恵まれなかった。アングレーム公の亡くなった弟の忘れ形見達を、まるで実の子のように、育てているという。
 朝、夫妻は馬車で礼拝に出掛け、午後には一緒に散歩をする。
 今まで戦いに明け暮れていたアングレーム公は、静かな暮らしに我慢がならず、パリで殺されなかったことだけが心残りだと豪語していると聞く。
 去年、シャルル10世が亡くなった。マリー・テレーズは、名目上、フランスの王となった夫に敬意を表して、その入退室の折は、常に、起立するという……。

 カールは、アングレーム夫妻に会いにいくことはしなかった。
 ……。

 ……夫婦が、同じように年をとるとは、どんな気持ちだろう。
 前を歩く夫妻を目の端に収め、カールは思った。
 ヘンリエッテとは、ありえなかった。彼女は、カールよりも、26歳も年下だったからだ。妻はいつでも、庇護されるべき存在だった。
 不意にカールは、先を歩く二人の前に立ち塞がりたい衝動に駆られた。
 のんびりと歩く老夫妻の前に立ち、その顔を、しげしげと覗いてやりたく思ったのだ。
 特に、妻の顔を。
 美しいまま死んだヘンリエッテと違い、マリー・テレーズの顔には、幾多の皺が浮かんでいることだろう。皮膚はたるみ、唇の端が、意地悪そうに、垂れて見えるかもしれない。

 だが、彼は、それをしなかった。
 少しだけ自分より高い息子の肩に己の肩を並べ、わざとゆっくり、歩き続けた。


1848年革命


 7年後。マリー・テレーズの夫、アングレーム公が亡くなった。
 アスペルンの英雄、オーストリアのカール大公が没したのは、それから、さらに3年後のことだった。



 翌年1848年2月。
 再びパリに、革命が起きた。
 国王ルイ・フィリップは退位し、イギリスに亡命した。

フランス2月革命


1ヶ月後。ウィーンにも。
けれどこの国は、何も変わらなかった。

ウィーン3月革命



fin.


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