カール大公の恋6 叶えられなかった約束②
雪のシェーンブルン
1830年の年が明けた。
女官の目を盗んで、マリアはシェーンブルン宮殿の外へ出た。
冬の庭園は、寒々として寂しかった。マリアの好きなバラ園は、雪に埋もれていたし、迷路も閉じられていた。噴水さえも枯れ果てている。
……「姉上、どこへ行くつもり?」
咎めるような声が、耳に蘇る。
この頃、マリアの1歳下の弟、アルブレヒトは、ひどく生意気になった。皇帝から、大佐の内示を戴いてからというもの、偉ぶって、手がつけられない。
しつこく問い糾す弟を無理やり振り切って、ここまでやってきた。
マリアは、ただ、息苦しかった。
だから、外の空気を吸いたいだけ。冷たく清冽な、外の空気を。
宮殿からまっすぐ歩いて、右に曲がったところに、ローマの遺跡の、イミテーション群があった。
他の季節なら、雑草が生い茂り、いかにも廃墟という印象を与える。だが、冬のさなかの今は、全てが、雪に覆われていた。宮殿の古い石材で造られたというモニュメントだけが、無機質に、聳え立っている。
……お母様は、ここがお好きだった。特に、コリント式の柱と、アーチ型の石の門が。
だが、大好きだった母はもう、いない。
去年の暮れに、死んでしまった。
14歳のマリアには、あまりに早すぎる別れだった。
鼻の奥が、つんとした。
……いけない、この、つんが、目まで伝わると、涙が出てきちゃう……。
彼女の父は、他ならぬ、アスペルンの勝者、カール大公だ。その上、彼女は、6人姉弟の、一番上の姉。
決して、泣いてはいけないのだ。
……強くなくちゃ。だって、チビちゃんたちがいるんだから。
去年の秋、猩紅熱に罹った下の弟たちを看病していて、母も、この病に感染した。肺炎を併発し、あっという間に亡くなってしまった。
もちろん、弟妹たちは、悪くない。そんな風に思ったら、ダメだ。絶対に。神に誓って、マリアは、彼らのせいだなんて、思っていない。
看病なんて、侍女たちに任せておけば良いのにと、陰口を叩く者もいた。
母は、常に、子ども達と共にいることを選んだ。小さい弟妹を、絶対に、誰かに託そうとしなかった。
自分の手で、子ども達を育てることが、母の誇りだった。
それは、多分、父を愛していたから。
結果として、自らの命を引き換えにしてしまっても、母は、後悔していなかったに違いないと、マリアは思う。
……でも、本当は、私は、寂しい。もっともっと、お母さまと一緒にいたかった……。
抑えた筈の熱い何かが、再び、鼻の奥に込み上げようとしている。
その時、冷たい空気に混ざって、いがらっぽい気配が流れ込んできた。独特の煙っぽさが、鼻のつん、を和らげていく。
……煙草?
マリアは、踵を返そうとした。今は、誰にも、会いたくなかった。
その人は、コリント風の装飾を施した柱に寄りかかって、煙草を吸っていた。
金色の髪、背の高い、すらりとした姿……、
それが誰であるかを悟り、マリアはしゃがみこんだ。足元の雪を握り、ぎゅっと固めた。
足音を忍ばせ、コリント式の柱の陰に回る。
自分の煙草の煙にむせてか、その人は、咳き込んだ。
彼女は、立ち止まった。柱に隠れて、様子を窺う。
咳はすぐに静まり、彼は再び、煙草を口に咥えた。
マリアは、冷たく白い塊を、大きく振り上げた。
無防備に煙草を吸っている背中めがけて、力いっぱい投げつけた。
雪玉は、柱からはみ出た背中の、肩の辺りに当たって砕けた。
灰色のマントを着た人が、驚いたように振り返った。フードから、金色の髪が、こぼれるように覗いている。
青い目が大きく見開かれ、マリアを見つめた。
その彼に向かい、マリアは叫んだ。
「ライヒシュタット公! あなたは、悪人だわ!」
「マリア大公女」
煙草を右手の指に挟んだまま、ライヒシュタット公は怪訝そうな顔をした。指先の煙草から、紫煙が立ち上り、空に消えていく。
「私が悪人? なぜ、そのようなことを、おっしゃるのです?」
「だって貴方は、嘘をおつきになったわ! 嘘をつくのは、悪人だって、お父様がおっしゃいましたことよ」
「嘘? 私が?」
まるで心当たりがない、というように、ライヒシュタット公は首を傾げている。両顎の下辺りに、薄い金色の髭が生え始めていることに、マリアは気がついた。
色の白い優美な顔と、もしゃもしゃした髭は、ひどく不釣り合いに、マリアの目には映った。
余計、むしゃくしゃした。
「まあ! お忘れになったのね! あんなに固い約束をしたのに!」
「ええと……」
「お父様が証人です。ええ、貴方は、大嘘つきよ!」
「ごめんなさい。なんのことだか、僕には、さっぱり……」
途方に暮れたように、青い目が瞬いた。
……やっぱり。
……この人にとって、私との約束なんか、上辺だけのものだったんだわ。
……私は、あんなに楽しみにしていたのに。
「貴方は、約束なさったわ! わたしを馬車に乗せて下さるって……年明けの、休暇になったら!」
「ああ!」
ようやく、彼も思い出したようだった。
年明けから、皇妃の聖名祝日(本人が命名されたのと同じ名の聖人の祝日)までの間、皇族たちは、連れ立って、外へ散歩に出掛ける。劇場に行ったり、プラーターを散策したりして、楽しむ。
去年の早いうちから、マリアは、ライヒシュタット公の馬車に乗せてもらう約束をしていた。
「でも、今年は……」
そうだ。
わかっていた。
母が亡くなったばかりなのに、彼が彼女を、誘いに来れるわけがない……。
しかし、溢れ出したやり場のない気持ちは、止まらなかった。
「わたしとの約束なんかすっかり忘れて、どうせ貴方は、ゾフィー大公妃※をお乗せしたのでしょう? 今日だって、ご一緒にシェーンブルンまで遠出してきたのに違いないわ!」
マリアは、残酷な気持ちになっていた。
この美しい年上の青年を、思うがままにいたぶってやりたい衝動に駆られた。
「貴方なんて、大っ嫌いよ!」
傍らの大理石から、雪を掬い取った。
きゅきゅっと丸め、再び、ライヒシュタット公に投げつける。
雪の玉は、まともに、彼の顔にぶつかった。
「嫌い嫌い嫌い!」
叫びながら、ふたつ、みっつと、雪玉を投げて、ぶつけた。
ライヒシュタット公は、投げ返してこなかった。
両腕で顔の当たりだけをかばっただけで、その場でじっとしている。
……アルブレヒトや、チビちゃんたちと違う。
それでも、止められなかった。
マリアは雪玉を丸め、投げ続けた。
しまいには腕が疲れ、掬ったままの雪を固めもせず、そのまま放った。
投げたはずの雪が、ぱらぱらと彼女自身の上に落ちてきた。
「気がお済みになりましたか」
穏やかな声が聞こえた。
さくさくと、雪を踏む足音が近づいてきた。
「ああ、あ。ご自分に、かかってしまって、」
ばさばさと、毛皮のコートをはたかれた。
ライヒシュタット公は、革の手袋をしていた。黒い手袋の指先から、煙草がなくなっていることに、マリアは気づいた。いがらっぽい匂いも消えていた。
「……ごめんなさい」
消え入るような声で、マリアは囁いた。
「何がです?」
「……煙草を、落としてしまったわ」
弾かれたように、ライヒシュタット公は笑いだした。
「いいんですよ。喫煙は、悪習です。貴婦人の前で吸うと、叱られてしまう」
「貴婦人?」
「貴女ですよ、マリア大公女」
ぱっと、マリアの頬が赤く染まった。
気づかぬふりをして、彼は続ける。
「それから、今日は私は、一人で来ました。ゾフィー大公妃は、ご一緒ではありません」
「本当に?」
「ええ。軍の教練の後は、シェーンブルンで乗馬と、学科の授業を受けるのが、習慣なんです」
「……そう」
心の霧が晴れたように、マリアは感じた。
母の死だけでも、辛く耐え難いことだった。それなのに、無神経な残酷さが、後を追ってきた。
母を、ハプスブルク家の墓所へ入れまいとする声が、マリアの元にも聞こえてきた。母はプロテスタントだから、カトリックの墓所には入れない、というのだ。
この騒動は、皇帝の一声で、解決した。母は、無事に、カプチーナ礼拝堂に埋葬された。
だが、それだけでは収まらなかった。母が祈りを捧げていた礼拝堂が、取り壊されることが決まったのだ。ひっそりとした、プロテスタントの礼拝堂……母に連れられて、マリアは何度も行ったというのに。
「お辛いことがあったら、体を動かすといいですよ」
ライヒシュタット公が言った。甘く優しい声だった。
「貴女は、乗馬はされないのですか?」
「乗馬? 教えて下さい」
ふふ、っと、端正な美貌がほころんだ。
「でも、貴女に近づくと、カール大公に叱られますから」
「父が? 叱る?」
「ナポレオンの息子に娘を取られるのは、おいやなのでしょう」
マリアはまだ、14歳だった。
そして、父は愛する母を亡くし、憔悴し切っていた。
父の忠実な娘として、彼女はいつも、父のそばにいてやりたかった。
でも……。
「……ナポレオンの息子とか、プロテスタントとか、」
低い声で彼女はつぶやいた。
「どうしてみんな、そんな風に言うんでしょう」
「……」
ライヒシュタット公は、すぐには答えなかった。美しい彫像のように、じっとしている。
まるで、自らの心の裡を覗き込んでいるように、マリアには、感じられた。
やがて、彼は言った。
「さあ。私にもわかりません」
にび色の雲が途切れ、薄日が差してきた。
「そろそろ宮殿に戻りましょうか」
ライヒシュタット公は、マリアに手を差し出した。
黒い革手袋が嵌められたその手を握り、彼女は、雪道に踏み出した。
「来年の年明けこそは、貴方の馬車に乗せて下さいますね?」
「よろしいですよ」
「きっとね?」
「はい、きっとです」
立ち止まり、マリアは、相手の顔を見上げた。首を後ろにそらさなければ見えないほど、背が高い。
俯いて自分を見ている顔が、陰になっている。
「あのね、ライヒシュタット公」
ぼんやりと優しい輪郭に向かって、言った。
「貴方のその、お髭が嫌いです。ちっとも似合ってないわ。次にお会いする時までに、剃って下さいます?」
「や、これは困ったなあ」
始めて、その声に、感情が滲んだ。
上辺の飾りが取れ、素に戻ったようだ。
優しく甘い声より好きだと、マリアは思った。
「将校は、髭がないと兵士たちから舐められるのですよ。特に僕は、若いから」
「それなら、許してあげます」
マリアは言った。
※ゾフィー大公妃
ライヒシュタット公の叔父の妻。彼が13歳の時、バイエルンから嫁いできた。ライヒシュタット公より6歳年上で、二人の間にはとかくの噂があった。