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芸術は役に立つし、役に立たないという矛盾(全文無料)

割引あり

旅する演出家、黒澤世莉です。

2024年9月1日で48歳になりました。3回目の年男です。次の年男は60歳、還暦です。中年男性になってから20年近くたっているのに、いまいち実感がありませんので、自分の社会的パワーの強さにつねに気をつけながら生きていこうと思います。

全文無料で読めるので、誕生日プレゼントだと思って1万文字読んでみてください。


芸術は役に立つし、役に立たないという矛盾

自由は教育できるか?

2022年ベスト書籍のひとつ『自由が上演される』では、このような問いかけがなされます。

「あなた(たち)の自由を尊重します」という文言は、純然たる利他性を意図して表現された場合でも、それ自体が極めて強い不自由を生む場合があります。人によっては「自由にふるまわねば」といった気持ちを抱くなど、強力なダブル・バインドにとらわれる場合もあるのです。

『自由が上演される』渡辺健一郎

演劇の場では「権力者(演出家や先生など)が自由にふるまうことを『強制』している」という考察です。この考察に私は驚いて、いままでの自分の演劇の場での振る舞いにダブル・バインドがあったことを認識し、そして好奇心を刺激されました。

「権力者が自由にふるまうことを『強制』している」というダブル・バインドは、この矛盾したメッセージを送らざるを得ない状況は、果たして解消できるのだろうか?

矛盾てなんだろう?

「ダブル・バインド」はベイトソンが提唱した概念で、矛盾したメッセージとメタメッセージを送ることで、受け手に強いストレスが生じる状況を表しています。
たとえばあなたが保護者だったとして、子どもに「自由に遊んでいいよ!」と言葉で伝えながら、子どもが勉強をしないとイライラした態度を取ってしまう、というような状況です。この場合、受け手の子どもは「遊んでいいって言ってるけど、遊んでいると怒られる」という状況にストレスを感じるかもしれません。

さて、矛盾について考えてみたいので、矛盾という言葉の意味を確認しましょう。実は矛盾という言葉は深堀りすると多様な意味が与えられているのですが、ここではデジタル大辞泉にかかれている、おそらく多くの人が思い浮かべる意味に近いものを採用します。

(略)二つの物事がくいちがっていて、つじつまが合わないこと。(略)

デジタル大辞泉(小学館)

矛盾は解消できるの?

二つの物事がくいちがっていて、つじつまが合わないこと。

この言葉の意味するものは広いので、解消できるものも解消できないものもあるでしょう。

矛盾の意味の語源になった故事のように「この矛はどんなかたい盾をも突き通すことができ、この盾はどんな矛でも突き通すことができない」のように、論理的に間違っていると明確なものは分かりやすいでしょう。
論理的な問題は、論理が矛盾しているか矛盾していないか、本当か嘘かの二項対立なので、話は簡単です。
もしこれが現実や生活に根ざしたことで、問題を解消したければ、実際に盾を鉾で突いてみたら、結果が出て矛盾は解消されます。いずれにせよ結論は、この主張は嘘だということになります。

次に、より実際にありそうな、現実や生活に根ざした問題として考えてみましょう。
例えば「いまより体重を落としたいが、毎日たくさんお菓子を食べてしまう」という状況があるとします。この場合「体重を減らしたいが、お菓子も食べたい」という矛盾がおきています。しかし、「体重を減らしたいからお菓子は3日に一度にする」とか「体重は気にしないことにして、毎日お菓子を食べる」あるいは「毎日強度の高い運動をすることで、体重を落としながら毎日お菓子を食べる」などの、問題を解消する方法があります。

体重とお菓子の問題の場合、矛と盾の問題のように、一度実行してみたら砕け散ってしまう、というような取り返しのつかない問題ではないので、いくつかの案を試行錯誤しながら、もっとも当事者にとって都合の良い案を採用することが可能そうです。

解消可能であり、かつ、解消したほうがポジティブな結果が得られる類の矛盾は、解消したほうが良さそうです。

では、最初の提示に戻りましょう。
「自由にふるまうことを『強制』している」というダブル・バインドは、この矛盾したメッセージを送らざるを得ない状況は、果たして解消できるのだろうか?

これはなかなか難しそうです。では、一旦この問題を棚に上げましょう。困ったときは回り道です。分からない問題は後回しにして、わたしが矛盾していると考えている事柄を提示して、そこにどんな矛盾が潜んでいるのか、その矛盾は解消できるのか、考えてみましょう。

役に立つ芸術、役に立たない芸術:前提をそろえよう

わたしは「旅する演出家」という肩書で活動している演劇の演出家です。私にとって関係の深い芸術、とくに演劇について考えてみます。

まず前提を揃えていきます。
「演劇」という言葉について考えてみましょう。
まず、この場での演劇は、私が主に活動する現代演劇について語ります。(歌舞伎や能などの古典芸能、ミュージカルやテンゴなどの商業演劇についても、重なる部分はあるかもしれませんが、カバーしきれるか分かりません。)

次に「役に立つ」「役に立たない」という言葉について考えてみます。
たとえば「役に立つ」という言葉を「有用な」「価値のある」「意義深い」などに書き換えることは可能です。また「役に立たない」という言葉を「無用な」「価値のない」「意義が浅い」などに書き換えることは可能です。

そこをあえて「役に立つ」「役に立たない」という言葉にしてみる理由は、現代の日本社会においては、あらゆる事象が「換金可能性が高い」「換金可能性が低い、あるいは無いかマイナスである」で判断されていると考えているからです。さすがにこのような表現は露骨すぎるので使われにくいですが、同じ意味で「役に立つ」「役に立たない」という言葉が使われているように思います。現代社会の構成員の実感に近い言葉として、こちらを選択します。

役に立つ芸術

では、役に立つ芸術や演劇があると仮定して、その証拠を探してみましょう。

あるアーツカウンシルの会合では、芸術が役に立つ、立たないというような議論には意味がなく、社会にとって有効だという前提から出発するべきだ、という言説が語られていました。これは心強い考え方ですね。

書籍をあたってみましょう。『描く、観る、演じる アートの力』では、サイコドラマやドラマセラピーなど、演劇と精神医療の共同の可能性が書かれています。

他にも、公益社団法人日本劇団協議会が発表した「芸術団体における社会包摂活動の調査研究」報告書では、演劇のワークに参加した方々にポジティブな変化が見られたことが書かれています。このような書籍や調査結果を探すことは、そう難しいことではありません。

また、わたしは20年以上アクティングコーチをしています。自分の実感としても、出会った俳優たちが演技技術を学ぶ中で、自分自身の課題を克服していく場面に何度も立ち会っています。

最後に、観劇ファンや、推し活をしている方々にとっては、演劇の上演を観ることが生きる糧であり、推しの上演がなくなることは人生に深刻な影響を与える、という方もいらっしゃるでしょう。

簡単に探しただけでも4つほど証拠が集められました。演劇という行為が、個人や社会にポジティブな影響を与える、ということは言えそうです。

ところが話はそう簡単ではありません。

役に立たない芸術

わたしは、日本国は文化芸術は役に立たない、と考えていると思っています。一つ証拠を上げましょう

日本国の国家予算における、文化(芸術を含みますが、ここでは文化とします)予算をご存知でしょうか。
日本の文化予算(文化庁予算)は、国家予算全体の約0.1%です。この割合は長期にわたってほぼ横ばいの状態が続いています。

こういう数字は他国と比較すると、何が起こっているのか見えてきます。お隣の国、韓国と比較してみましょう。

韓国の文化予算は、約1%程度で推移しています。その上、国家予算に占める割合も徐々に上昇しています。

日韓の文化予算を比較するとおよそ1/10です。ちなみに、日本の文化予算は、他の先進国と比較しても最下位です。

国家予算というものは、その国がなにが役に立つと考え、なにが役に立たないと考えているかを表している、と考えることもできる言えるでしょう。そういう意味では、日本国は韓国や他の先進国と比較して、文化、そして芸術は役に立たないと考えているようです。

もう一つわたしの個人的な経験から、文化が役に立たない、と考えられている証拠を提示しましょう。

国政や地方選挙の際、ポストに届く選挙公報があります。あれを熟読したことがありますか?
わたしは、あのなかに出現する「文化」または「芸術」という単語を探すようにしています。その単語が何回出てくるかで、立候補者たちが何を問題として、あるいは票になると捉えているか、が見えてきます。

その結果は、「ゼロ」良くて「1つ」です。年代や地域によっても違うでしょうが、21世紀の東京では、立候補者たちに「芸術は票にならない(役に立たない)」と考えられている、と言えそうです。

どうやら、「芸術は役に立つ」という言説や書籍、報告書があっても、それが日本国の予算や、議員立候補者の問題としては認識されていなようです。

さて、そろそろ、そもそも「役に立つ」「役に立たない」という二項対立は有効なの? という意見が聞こえてきそうです。そのことはあとで考えてみるとして、一旦なぜわたしがこういう切り口を選んだか、もう少し書かせてください。

役に立つ人間、役に立たない人間

そもそも「役に立つ芸術」は支援するけど、「役に立たない芸術」は支援しないよ、みたいな考え方は、大きな危険をはらんでいる、と考えています。この論理を突き詰めていくと、芸術という言葉は、簡単に人間にスライドしうるからです。

芸術と人間は、言葉の意味が違うからそうはならないだろう、論理の飛躍だ、って考え方もあるでしょう。でも、そうでしょうか?
芸術の営みというのは、基本的には役に立たないもののはずです。例えば、美味しいパンと、美味しい上に芸術的なデザインのパン、同じ素材と原料からつくられていれば、栄養価としては同じです。生物学的な生命維持の観点からみたら、芸術的なデザインはまったく役にたたないでしょう。

でも、人によっては、ぜひ芸術的なデザインのパンがほしい、と思うかたもいるはずです。役に立つか役に立たないかを超えた価値を生むのが、芸術だと言えるかもしれません。芸術こそが、人間を人間らしくする要素なのかもしれません。

ただ、このような価値を言葉にすること、とくに広く社会に共感してもらうことは困難なことだと思います。もし簡単であれば、もう少しこの社会において芸術の価値が広く認められて、芸術家の人数が増えていてもいいはずですが、そうはなっていません。

一旦、人間と芸術を近しい言葉なのだと仮説を立てさせてください。その前提で話を勧めます。
最も避けなければならないのは、人間を役に立つ、役に立たないで区分けする考え方です。残念ながら、このような考え方をされる方も一定数います。なぜ、このような考え方を避けなければいけないのか?

ここから、役に立たない学問に寄り道しましょう。

役に立つことだけが学問?

役に立たない芸術、役に立たない人間、から、役に立たない学問について考えるにあたって、一つ読んでほしいテキストがあります。

役にたつことだけが学問ではないとか、いつか役に立つことを考えれば良いのであって今役立つかどうかだけを考えてはいけない、などという考えもありうるだろう。社会のため、というとき、私たちは社会がまっとうなものだという前提を置いている。しかし、社会がまっとうでないとすればどうだろうか?

優生思想と伴走した知能検査(立命館大学総合心理学部教授:サトウタツヤ)

「社会がまっとうでない」場合、役に立つ、役に立たない、という考え方自体が、他者を危険にさらす行為につながるかもしれません。

優生学といって、現在は否定されているが、かつては科学として研究されていた考え方があります。人間は遺伝的に優劣が決まっているから、優秀な遺伝子を持った人間だけ残そう、みたいなことを、本気で考える人がいました(し、いまも少数ながらいるでしょう)。

当たり前ですが、優生学的な考え方は「劣った人間は殺しても良い」という考え方に接続します。そして、間違っている考え方も、コミュニティ内部で繰り返し語られることで、ナラティブとしての価値を持ち始めます。もし、これがまっとうでない社会で科学的(だと考えられていた)根拠とされてしまったら、大変な悲劇が起こることになります。ナチス・ドイツのホロコースト然り、イスラエルのパレスチナ人虐殺然り。

そのようなことは、日本では起こり得ないリスクでしょうか? もちろん、起こり得ます。関東大震災での朝鮮人虐殺など、あまり細かくは書きませんが「役に立たない」「劣った人間」は無用どころか悪であり、何をしても良い、という考え方は、現代の日本人でもお持ちの方はいます。

まっとうでない社会で、役に立つ演劇が悪用されたケースも書いておきましょう。太平洋戦時中日本では、演劇活動が自由に出来ませんでした。当時の大政翼賛会文化部は、演劇人に演劇活動の場として、戦意高揚や兵士慰問を目的とした移動演劇を企画します。かいつまんで言えば、戦争に協力しないと、演劇活動が出来なかったわけです。

いまここでは、当時の事の善悪を考察することは目的ではないので避けます。考えたいことは「役に立つ」ことは、まっとうではない社会において、「役に立たない」よりも、社会に悪影響を与えた事実がある、ということです。

こと人間に限って言えば、「役に立つ」「役に立たない」ということばを用いること自体が不適切だと言えそうです。

「人権」という、どんな人間にも生まれながらに尊厳がある、という考え方が、すべての日本人、そして全人類の常識として実装されることを強く望みます。

二項対立の、わかり易さといい加減さ

さて、矛盾はどこいったんや? という声が聞こえてきそうですね。そろそろ書きますのでもうちょっと待ってね。

やっぱり「役に立つ」「役に立たない」という考え方自体、見直したほうがいいような気がしてきました。でも、どうやって? 「役に立つ」とか「価値がある」っていう考え方が、現代日本の判断基準なんじゃないの? そうじゃない、芸術を考える言葉ってあるの?

わたしは、芸術は「役に立つ」し「役に立たない」と主張します。

矛盾してますよね。「役に立つ」し「役に立たない」ってどういうこと?

まず「二項対立」という言葉について考えてみたいと思います。相反する2つの概念を対立させる考え方です。「役に立つ」「役に立たない」は二項対立ですね。他の例としては「論理的」「感情的」はよく取り沙汰されますよね。

ちょっと考えればお気づきかと思いますが、二項対立は、その状況を単純化させすぎるという欠点があります。
「お菓子を食べるか、食べないか」くらい単純な問題であれば、ゼロか100か食べるか食べないかで答えられるでしょう。しかしこんなにシンプルな問ばかりではないし、物事はつねにゼロか100かで切り分けられるわけではありません。
例えば芸術は役に立つか立たないか、という議論で言えば、おそらく答えはその中間にあるし、その中間が1から99までのあわいを持っています。そしてその度合は、個別のケースごとによって違うでしょう。そもそも芸術という主語がデカすぎるのです。

ところが、わたしたちはうっかりすると、大きな主語の二項対立で物事を分析して断定する、という間違いを犯しがちです。たとえば「あのひとは感情的だよね」「あのひとは論理的だよね」とか、しかもその理由を性差や学歴に紐づけたりしがちです。なぜでしょうか?

国際政治学者の高橋和夫さんは、ゾロアスター教の特徴を「二元論」「終末論」「救済論」だと書かれています。「善と悪」の二項対立は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教でもおなじみです。

ということは、二元論や二項対立という考え方自体が、わたしたちホモ・サピエンスの「わかり易い考え方」と考えられそうです。対立軸が3つ以上になると、わたしたちの脳の処理能力を使いすぎてしまうのかもしれません。

しかし、脳のクセに支配されて、二項対立に陥りがちというのは仕方がないにしても、そのままでいいと開き直るのはいい加減な姿勢だと思います。脳のクセがあると分かったら、その上で、二項対立の罠を避けつつ、考え方を進めていくこともできるでしょう。

「役に立つ」「役に立たない」の二項対立から、もっと多くの軸をとりたいところですが、一旦「それ以外」という、ざっくりまとまった第三極を置くことにします。

論理の、可能範囲と限界

わたしは、多様な個々の置かれた状況の中で、芸術は「役に立つ」と「役に立たない」と「それ以外」のあわいに生じる矛盾に存在する、と主張します。

さて、だいぶややこしくなってきた芸術と矛盾ですが、ややこしくなった、と考えるあなたは、「どうやって考えている」のでしょうか?

おそらく論理的な思考をしているのでしょう。(イメージ思考をする方はもはや芸術の範疇になっていくので、一旦例外としてすすめます)

考える、という行為は、一般的には論理的な思考を積み上げていくことです。あるいは科学的に考える、という言葉であれば、客観的な視点で、論理的に分析し、証拠に基づいて判断をくだす、というような意味になるでしょうか。

論理的な思考や、科学的な考え方には、おおよそ矛盾の付け入る好きはなさそうです。矛盾とは、論理や科学と相性が悪いのでしょうか?

そんなことはありません。むしろ哲学分野では矛盾は一つの重要な概念ですし、実験科学だって、一見矛盾する結果を粘り強く観察した結果、量子力学という学問が生まれたわけです。

とはいえ、論理というものは複雑になると、誰にでも理解できるラインの限界を超えてしまいそうです。言葉は論理的思考には便利な道具ですが、それを厳密に運用していくことは、多くの人間にとっては分かりにくい文章になることを受け入れないといけなくなります。言葉が厳密になればなるほど、説明が理解できる対象はどんどん狭まってきます。そこに言語の限界があるといえるでしょう。

そして、芸術は、その言語の限界を超える可能性を秘めています。つまり、ある対象や事象を、論理的、科学的文章で記述するより、芸術作品にすることで、その対象や事象を受け取れる主体の母数が増える、という可能性がある。

たとえば『コペンハーゲン』という戯曲があります。これは量子力学のコペンハーゲン解釈と、人間の深層心理の不思議を描いた演劇ですが、量子力学の論文を理解できなくても、この演劇を観ることで、量子力学の本質に触れることができるかもしれません。

役に立つかどうかは別として、論理では説明しきれない、あるいは専門家にしか伝えられない概念を、芸術ならば伝えられる可能性がある、と言えそうですね。遠回りすることで面白い旅路になってきました、先に行ってみましょう。

古典経済学と、行動経済学

いやいや黒澤世莉さんよ、人間は合理的に考えるものだよ。ロジカル・シンキングやクリティカル・シンキングを知らないのかい? そういう声も聞こえてきそうですので、ちょっと経済学に寄り道しましょう。

人間は合理的に判断する、というふうに考える方は、現代にも多くいらっしゃるようですが、経済学ではどう考えられているのでしょうか。

古典派経済学では、人間は合理的に判断すると考えられていました。でもどうやらそれだけでは説明できないようです。もし人間が合理的に判断するのであれば、市場の動向を予想できそうです。でも、いつまでたっても予想できるようにはなりません。そういった状況を受けて、行動経済学という学問が生まれたそうです。それでも、いまだに市場の動向は予想できないみたいです。

個人個別で見れば、ロジカル・シンキングやクリティカル・シンキングが可能な人間は存在するでしょう。しかし、ホモ・サピエンスの集合となると、どうやら合理的に判断できないようです。

そして、経済という、ホモ・サピエンスの集合が織りなす行為が予測不可能なのであれば、同様にホモ・サピエンスの集合が織りなす行為である、政治や軍事も予測不可能だとスライドできそうです。

ホモ・サピエンスの集合が織りなす行為は、感情とは切っても切れない上に、科学的には予測不可能だと言えます。

感情とは切っても切れない上に、科学的には予測不可能なものにどう対応するのか? こういう問題を考える時に、多様な個々の置かれた状況の中で、芸術が助けになる部分はありそうに思えます。

遠回りをしながらですが、芸術が役に立つか役に立たないかはケースバイケースだし、言葉で説明できないことや、予測不可能なことに対応するために、芸術にできることはありそうですね。

矛盾は人間の本性

さて、最初の問に戻りましょう。

「権力者が自由にふるまうことを『強制』している」というダブル・バインドは、この矛盾したメッセージを送らざるを得ない状況は、果たして解消できるのだろうか?

矛盾を解消しなくてよいのではないでしょうか。なぜなら、矛盾こそが人間の本性であり、矛盾した複雑な状況を観察しながら、その場その時の最適な選択を探していくしかないからです。

演劇の場の話で言えば、権力者の強制力を最小に、その他の参加者の自由を最大に、するための言葉や行為を、選択していくほかないでしょう。
それも、現場やメンバーによって、最適な解は変わっていくので、その都度その都度対応を考えていくことが重要に思われます。もちろん、そんな取り組み方では失敗も起きるでしょうが、おそらく失敗することも、また一つの重要な価値なのだと考えています。

合理的に考えたら、失敗は少ないほうがいいということになるのでしょうが、失敗を重ねることで経験が積まれていく以上、人間にはある程度失敗することが必要なはずです。個人の成長にフォーカスするならば、本当に合理的なことは、いかに安全な場所でたくさん失敗させられるか、が大切でしょう。

経済合理性の話で言えば、株式投資をしたほうが長期的な利益は得られそうだけど、今日ビールが飲みたいという感情に抗うことはできますか? お金増やしたいという気持ちや痩せたいという気持ちと矛盾した、痛飲という行動をとることはないでしょうか?

ホモ・サピエンスはそもそも合理的にはできない。論理と感情の間に矛盾が生じるのは当然なのです。それなのに、論理的な思考に従わないといけない、と考えがちです。そして、論理的な思考を優先できないことで、自分を責めたりしがちじゃないでしょうか。でも、自分を責める必要はないはずです。論理的思考が優先なんて、誰が決めたルールなのでしょうか?

どうも、現代社会では、論理のほうが感情より優れている、という価値観があるようです。それに影響されて、論理的な結論により価値がある、という思考の癖が出来ているのかもしれませんね。

もしも、論理と感情は等価値なのだとしたら、お金減らしてビールを飲むことは、ひとつの選択でしかなくて、その行為に一喜一憂する必要はなくなるはずです。

もちろん、毎日ビール飲んでいいよって話じゃなくて、お金貯める日もあればビール飲む日もあれば、稼ぎを増やしてお金をためながらビール飲んでもいいわけです。

重要なのは論理と感情が矛盾する状態は、人間にとって当たり前だと受け入れて、その上で、長期的な目線を持ちながら、自分で選択したい方を選択することです。

おわりに

ホモ・サピエンスは考えたり感じたりする生き物です。
個人の中で考えることと感じることは、必ずしも同じ方向を向くとは限りません。
論理では自分に否があると考えられても、感情的には怒ってしまう、そういう矛盾は誰にでもあります。(だからといって理不尽に他人に怒りをぶつけることはやめましょう)

ホモサピエンスの集合も、法治国家とか論理的に説明とかいいつつ、実際は感情で動いています。だから、本音と建前が違うことや、様々な矛盾が生じています。

最後に、わたしたちは矛盾した自分や他者や社会と、どのように折り合っていったらいいのでしょうか?

まず、悲観することはないと思います。矛盾してるんだなー、っていう事実を受け入れればいい。矛盾自体は良いことでも悪いことでもないです。

そのうえで、粘り強く、分からないことを捉えつつ、観察した事実と向き合えばいいと思います。
無理に何かを解決しようとするより、そこにある矛盾をただ認識するだけがオススメです。というより、観察した事実と向き合うだけで相当カロリーを消費するし、そこまでがいちばん大変なので。

事実を認識できれば、あとは時間をかけて向き合うこと。それだけでも、見て見ぬふりをしているときとは、状況が変わります。

そして、ホモ・サピエンスの集合同士に矛盾が生じたら、その分断を認めること。その状況に分からないことがたくさんあることを認識すること。分断を分断のまま見つめて、無理につなごうとしないこと。分断自体の良し悪しはなくて、攻撃したり無視したり、を避けることが重要。

動物は、自分が殺されたくないのに、何かの命を奪わないと生きていけないという矛盾を抱えている限り、矛盾をゼロにはできません。自分自身も、他者も、外の社会も、矛盾だらけだし、受け入れがたいなと思う部分も多いでしょう。

その前提で、矛盾に溢れた自分や他者との関わりを、面白い遊戯、と捉えることが出来るでしょうか。
分かりあえないことを、遊戯にできるでしょうか。

もしそれが面白い遊戯になるとしたら、それこそが人間の人間たる理由である、文化や芸術の力によるのかもしれません。

おしまい

せんでん

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あまり

1万文字読んでくださりありがとうございました!
とてもうれしいです。たいへんでしたねえ。おつかれさまでした。

この先は有料にしていますが、本文はここまでで終わっています。この先に書かれていることは、本文ではなくって、書こうと思って書けなかったプロット部分です。

ですので、読み物ではなく、もし読んでみて面白いなーって思ったり、9月1日が誕生日のわたしにプレゼントしたいなーて方への、おまけです。

「それでもいいよ!」という篤志家の方、課金いただけたらとてもうれしいです。

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なおサポートの受け入れ体制はいつでも全力で整っています。歩きつづけて書きつづけるための、ご支援ありがたくちょうだいしまーす。