わたしはいつ正気だったか。

過去を振り返る時間をとっている。
自分が前向きに生きていたことがあったか。

よく覚えているのは、
向かいから歩いてくる人が
全員私の悪口をいいながらすれ違う妄想。
そのひとつひとつに、言い返す練習をしてた。

就職してすぐの頃だったとおもう。
Coccoの映画で、自分以外の人の顔が
全てぐるぐる回って歪んで見える怖い映像があった。
最後には自分の大切な赤ん坊を
高いところから落とす、という終わり方。

顔がぐるぐるまわって、悪口を言うのは
いつもみているものだと思ったし、

赤ん坊を高いところから落とすのは
弟がうまれた10歳からよくみる夢だった。

弟が可愛くて仕方がないから
死んでしまうのではないかと怖かった反動で
こんな夢を見るのだと理解しながら、
おくるみに包まれた弟が落ちていく様は
ゾッとする光景で、起きるとほっとした。

そのことを誰にも言えなかった。
言葉にしたら本当になるとおもって。

向かいから歩いてくる人がわたしの悪口いうのも、
日々の防衛本能で疲れているから
みる幻覚、きく幻聴ということも理解していた。
だから、その件では精神科を頼ったことはなかった。

同時に、自分の家系に精神疾患者がいるので
自分にもその傾向があると理解していた。

なので、狂っていることも、
人よりなにか足りないのも、
あきらめていた。
きれいに諦められていたわけじゃなくて
心が元気な時は

時間をかければ、
倍努力すれば、なにか変わるんじゃないかとも
おもっていたこともあり、
大学に行ってみたり、
国家資格を2つとってみたりと
形になる何かを得るために努力もした。

お酒に逃げたことや、
タバコを吸うことで深呼吸ができる気がしたのも、
バランスをとるためであった。
それくらい田舎でセクシャルマイノリティー で
自覚して生きていくのは心の強さが必要だった。
ついには育まれることはなかった。


生活習慣から癌になったんですね、といわれても
あなたがあなたのまま生きなかったから
癌になったんだといわれても、

わたしにはどうしようもなかったんだと
怒りがわいた。
無理難題な世界で一生懸命生きてきた結果に
唾を吐き付けられた気分になった。

あいつを一生許すことはできない。
わたしはこの気持ちを消化させる気はない。

狂ったまま生きている。
それで「普通の人」としてまじりたかった。
普通の人とは、狂ってない人のことだ。
特別すごいひとになりたかったわけではない。

普通のひととは
異性愛者のことであり
家庭を持ち、こどもがいるひとのことだ。

その人たちのなかに狂っている人もいることは
知っているけど。

この矛盾が頭と心を迷路にさせ
生きる気力を失わせる。

いつ正気だったことがあるか?
いつか正気になれるだろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?