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「特別」にも「普通」にもなれない私

 

特別な誰かや何かを持つ人でありたかったこともあった。

けれど、自分の人生や背景が「普通」でもなく、自分の特性が多数派でもないと気付いて、これ以上周りと違うのはどれだけ理解されず、誤解され、共感を求め、寂しいのだろうなと想像する。

私は「普通」ではないし、「普通」にふんわり憧れる変な人に過ぎない。そして、その一方で「普通」なんて人類史やを振り返ればその一瞬の、幻想でしかないとも思う。身分制度や家業の世襲が当たり前だった時代もあるし、流行も賞賛されるものも変わる。だから、周りに違和感なく驚かれもせずに話せることが「普通」なのだとしたら、それは相手と場次第なのだ。

そもそも、私は普通という言葉は好きじゃない。何か大きな影響力をもつものに、型に嵌められているかのような不快感を感じる。そして、その枠に入れない居心地の悪さを思い起こさせる。
例えば、私はこの前いま有名な芸能人とすれ違ったけれど、私はその人を知らなかった。小さいころからHSPでTVが苦手な私はTVを見たがらず、学校で話題になっている芸能人を知らなくて、話に入れない疎外感を感じたこともあった。

なのに、今やTVを見る若い世代は少数派になりつつある。私が自宅にTVを置いていないと言っても、どんどん驚かれなくなってきた。普通なんてそんなもの。
そして、普通じゃなさそうなあの芸能人も、私にとってはただスタッフに囲まれた人に過ぎない。生き方の多様化とも言えるのかもしれないし、選択肢が増えたのかもしれない。

けれど、もし私が何百年も前に生まれていたとしても、「普通」にはなりたがらなかったと思う。私は、特別でなくても私でいたいのだ。


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