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道を歩く

社会人になって2年目の冬。初めて遭遇した出来事についてここに記すとする。

私には入社した当初、仕事についてや取引先との人間関係の築き方など色々なことを教えてくれていた上司がいた。その上司は真面目で頭脳明晰かつ、コミュニケーション能力も高く、社内で評判の良く、次期昇進が間違いないとされていた人であった。私はその上司とは、月に1回は必ず飲みに行くほどの仲で、良い関係を築けていたと思う。

紅葉も終わる頃のある日、いつものように会社に着き、始業の準備をしていると社内が騒然としているに気がついた。同期に話を聞くと、その上司が来ていないと言うのだ。これまで1回も遅刻や欠勤をしていなかったのにだ。事故にでもあったのではないかと、色んな人が連絡をしたが繋がった人はいなく、結局その日会社に顔を出すこともなかった。その後1週間、彼は連絡もつかず出勤することもなかった。彼が亡くなったなど悪い噂をする者も出始めた。

突然、1本の電話が始業前に会社にかかってきた。丁度その日は取引先から朝に連絡すると約束があったので電話を1番にとった。すると電話口の向こうから聞こえたのは彼の声であった。しかし、いつもみたいに通ったハキハキとした口調ではなく、たどたどとして弱々しい声であった。部長と話したいと言われたので、そのまま繋げた。部長は最初とても安堵していたが話していくうちにだんだんと顔が青ざめていった。カタンと電話を置くと部長はそのまま足早にオフィスを出てしまった。余程、急を要することなのであったのだろうか電話が完全に切れておらず、ツーツーとデスク周りに音が響いていた。

部長は戻って来るや否や、彼は病気にかかってしまったので最低1ヶ月は休みになると皆に告げた。どんな病気かは教えてもらえず、憶測だけが広がっていった。

そんなある日のこと、突然に彼は戻ってきた。以前とは180度違った姿で。顔はこけ、目はうつろになっていて元気がなかった、いや生気を感じないというのはこういうことを言うのだろう。これまで彼が出勤すると周りを取り囲むようになっていたが、その変貌ぶりに皆近づけないでいた。その日の終業時に私は勇気を出して飲みに行きたいと誘った。彼は最初にちょっと困った顔をしていたが、承諾してくれた。

かなり見た目は変わっていたが、久しぶりに会えて嬉しく、色々と何があったのか聞こうかと思い居酒屋の席に着いた。しかし、何から聞いたら良いか分からず、一言も話せないでいると彼からゆっくりと言葉を紡ぐように話した。彼はうつ病であった。働く意義も見出せなくなってしまい何もやる気が無くなってしまったとのことだった。最初に接してもらったときや飲みに行った時に聞いた話では大学も名門私立で趣味も多く、私の理想そのものであった。何一つ不自由もなく、困りごともないものだと思っていた。いや、決めつけていただけだった。更に話を聞くと大学も会社に入った理由も趣味の多さも全て、親の受け売りだったのだ。そして気づいたのだ、何も興味がないと。私は幸せの価値観について改めて考えさせられた。彼は学歴も会社での今までのポジションも全て表においては輝かしいものであった。しかし、どんなに世間ではそれが褒められようとも、収入が良くとも、彼には埋められない心の溝があったのだ。興味があるものが分からない、それはとても不幸なことではないだろうか。でも私は親の考えもわかる気がする。収入が多ければ多い程、お金の使い方の道は増える。そして学歴が良ければ良いほど、将来の選択肢が増える。趣味が多ければ多い程、仲良くなる人間の選択肢が増える。それは親にとっては綺麗な1つの道である。しかし、彼はそれ以前に興味があるものがわからない、そして歳を取ればそれが出てくるという保証もないのだ。それはとても孤独で辛いことだろうと知があまりない私でも容易に想像がついた。そしてその話に対して私は何も返せず頷きただただ涙を流すしかなかった。

彼は今日も出社している。駅からの1本道を通って。


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