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COVID-19をめぐる議論と、それを取り巻く磁場について

 本記事は、ルネサンス研究所の2020年9月定例研究会にて発表した内容を一部改稿したものです。

 公開がこの時期になってしまったのはひとえに私の怠惰なのですが、そのため、内容的には少し古いものになってしまっています。とはいえ、当時の状況についての観測記録という面も持っているので、あえてほとんどそのままの形で残しておこうと思った次第です。

 さて、新型コロナ関連で私が書いた記事では、これが三本目になります。一本目は、「COVID-19と世界認識の一断面」という記事で以下のNoteです。

 二本目は、雑誌『情況』2020年夏号に掲載された「コロナ論壇評:COVID-19パンデミックをめぐる言説」という記事です。

 本稿も含めて、いずれも時評的性格の強いものなので、これらを読まなくても以下の記事は理解可能であると思います。ただし、一応は上記二本の続編という形態をとっている、ということだけは筆者としてお断りしておきたいと思います。以下、本文です。

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1. はじめに

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の出現は、実際のところどの程度、世界情勢に、あるいはわれわれの世界認識に影響を与えたのだろうか。国内初の感染者が確認されたのは今から8ヶ月前の今年1月16日。緊急事態宣言の発令からは5ヶ月が経過した。この間、左翼からもそうでない者からも、国内外で様々な議論が噴出してくるのを見た。ワクチン開発やパンデミック終息への見通し、グローバル資本主義の行く末や国民国家批判、気候変動との関係、さらには感染症社会における個人の生活倫理にいたるまで、その内容は多岐にわたるものだった。
 しかし、政治制度や経済システムについてのマクロなレベルでの議論がコロナ禍においてあらためて盛り上がってきたという現象について、それはこの危機の中でわれわれの未来に対する想像力が刺激されたのだ、などと果たして言えるのだろうか?むしろ、この現象自体が、われわれがコロナ禍において想像力を制限されていることの症候なのではないか?実際コロナ禍において、様々なバックグラウンドをもつ様々な論者が、政治や経済や文化や多岐にわたる議論を展開しているが、そこでなされているのは、つきつめれば新型コロナウイルスについての語り、その様々な変奏にすぎない。いかなるテーマを選んでも、結局はそこへ戻ってくるしかないのである。この袋小路が、現在展開されている多くの議論を色褪せさせている一因である。

 この袋小路は、それに自覚的であれ無意識であれ、逃れることは難しい。新型コロナ禍それ自体は政治的・経済的になんらかの変革をもたらしうるような特筆に値する出来事ではないと考えているつもりの論者であれ、この袋小路に陥っていることが珍しくない(註1)。というのも、そのような思考は「コロナに関係なく」という否認の身振りの上でのみ可能な思考であるからだ。実際のところ、パンデミックによって社会全体が何らかの影響を被っているのだから、「コロナに関係なく」という構えは否認以上のものではない。

 一方で、より積極的に「ウイルスとの共生」も謳われている。それは“With Corona”というような行政のスローガンのみならず、論壇においても展開されているものだ。京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸は、人間の体の全ての細胞のゲノムにはレトロウイルス由来の配列(=内在性レトロウイルス)が組み込まれており、それは全ゲノム配列の8パーセントを占めていること、そしてそれが動物、特に哺乳類の進化に大きな影響を及ぼしているという研究結果を記している(註2)。また人類学者の奥野克巳は、「ウイルスを敵や脅威とみな」すのではなく、「病原体を含むあらゆる存在者の動きを、善悪以前の次元で、生と死が絡まり合った生命現象として描き出すこと」を提案している(註3)。
 だが、「ウイルスとの共生」を目指すというこれらの言説が些か倒錯的に映るとすればそれは、そこでの“共生”の根拠になっているのが、「それゆえにウイルスと共生すべきだ」という思考へ導く類のものではなく、「われわれはすでに(遺伝子レベルで)ウイルスと共生している」というものだからである。したがってより適切に表現するならば、「われわれは現在すでにウイルスとの共生を強いられている(、ただそれを受け入れていないだけで)」というべきなのである。
 さて、これはたんに生物学的な意味にとどまるものではない。われわれの思考もまた、コロナウイルスとの共生を強いられているのである。では、コロナとの共生を強いられたわれわれの思考は、いかなる問題を抑圧し、また宙づりにしてきたのだろうか?パンデミックが始まってから抑圧されてきた問題は、どのように回帰してくる/きているのだろうか?宙づりにされてしまった問題は、どうすれば再びわれわれの眼前に再出現させることができるのだろうか?
 

2. 新たな光を当てられたもの

 では、われわれはコロナ禍においてどのような思考の檻の中に置かれてしまったのだろうか。この問題を考えるときに注目すべきなのは、コロナ禍においてまったく新しく噴出してきたような議論ではない。むしろこれまでも問題になっていた事柄をあらためて問題にしているような議論である。というのも、これまでも取り上げられていた事柄がコロナ禍で再び脚光を浴びるとしたら、そこには新たな意味づけがなされている可能性があるからである。そして、この新たな意味づけの視角こそ、コロナ禍におけるわれわれの物の見方を特徴づけているものなのである。

 パンデミック以前からあり、そしてパンデミックを通じて、より一層問題になってきた事柄の一つとしてまず挙げられるのは、「フェイクニュース」の問題である。年初から春先にかけてアメリカでは、トランプ政権やその周辺の右派が、新型コロナウイルス感染症の脅威そのものを「フェイクニュース」として否認する身振りをとっていたのは記憶に新しい。John Horganはこうした論調を、右派ポストモダニズムの現れであると述べていた(註4)。多くの犠牲を払った現在では流石に、こうした論調はやや後景に退いた感もある。しかし欧米に比して(なぜか)感染者数を抑えることに成功している本邦では、維新の会がうがい薬のイソジンをコロナウイルス感染予防に効果があるとしてーーもちろん効果はないーー記者会見をしたり、「コロナはただの風邪」として東京都知事選に立候補した平塚正幸が党首を務める「国民主権党」は、週末には毎週のように渋谷ハチ公前広場で「クラスターフェス」なるものを開催している。

 フェイクニュース自体はコロナ以前からあったわけだが、「コロナはただの風邪」というような言説=フェイク・ニュースの問題はーーたんにそれが医学的根拠がなく人々を危険に晒すというだけでなくーー、〈自粛〉疲れの反動でそれを信じたい人が増えているということであろう。もちろんこのことの背景には、専門家でない者にとっては正しい医学的知識にアクセスするのがますます難しくなっているという事実ーーたとえば、メディアで発言している専門家の意見が一致しておらず、誰の発言を信じればいいのかわからないetc.ーーもあると思われる。医学的知識という事実はなお重要性を増し続けている一方で、フェイクニュースを信じる人々に事実を突きつけることには意味がなくなっている。フェイクニュースは情動の次元で影響を発揮するものであるからだが、これは「正しい医学的知識という事実」と「状況の中でどう行為するか」とを隔てる距離の問題でもある。

 では、「コロナはただの風邪」という(誤った)事実を踏まえた「クラスターフェス」についてはどうか(註5)。防疫上効果があるというクラスター対策が、共同体の基盤をーーしばしば不可逆にーー破壊しかねないのは事実である。また、斎藤環が述べている(註6)ように、パンデミックが終息すればわれわれは「三密」を取り戻すべきであるというのも首肯できる。しかし「クラスターフェス」は、それが現下の〈自粛〉圧力への単なる逆張りとして展開されるものであるという点においてすでにーー彼ら自身の意に反してーーコロナ以前の日常への回帰・再演とは異なった意味づけがなされてしまう行為なのである。
 「クラスターフェス」が開催される契機が、情動の次元にあるというのはどういうことだろうか。「クラスターフェス」の開催はたんに、「コロナはただの風邪」という“知識”に裏づけられたものというわけではない。この“知識”はいわばある種の添え物にすぎない。というのも、「コロナはただの風邪」であるとして、それゆえに必然的に「クラスターフェス」が開催されるわけではないからである。
 知的な次元においては、感染予防という観点から国家やグローバルな共同体がーー多くの問題を抱え、また例外もあるとはいえーー多少の役に立ってきたことは事実である。しかし、日常の回帰でさえない別の意味づけを伴ってまで「クラスターフェス」が開催されたという事実があらためて明るみに出したのは、情動の次元ではそれ、つまり国家やグローバルな共同体はなんら個人の役には立たないということなのである。国家やグローバルな共同体への帰属意識は、個人を情動の次元で満足させるものではない。人々はより単純な接触のレベル、顔が見える共同体を情動の次元では欲しているのである。これは、単なるヒューマニズムの問題ではない。コロナ以後は、この次元の共同体論がない左派の戦略は奏功しないだろう。

 さて、パンデミックを通じて意味づけが変じた事柄としてもう一点挙げておこう。グローバリゼーションと国民国家の(対立)構造である。パンデミックの到来によって、グローバリゼーションはウイルス拡散と協働するものとして広く認識されるようになってしまった。一方で、国民国家は防疫の役には立ったが、しばしば(医学的根拠に基づかない)外国人排除を行うなど差別の温床となり、その側面がクローズアップされるようになった。それによって、国民国家とは対立的な関係にあるとされるグローバリゼーションが再評価され、さらにこれには「寛容さ」といったイメージも付与されるようになった。ナショナリズムを批判しグローバルな協力を唱えるユヴァル・ハラリらの議論(註7)もこの延長上のものである。

 ここで注目すべきは「ウイルスとの共生(with Corona)」というテーゼである。「ウイルスとの共生」はグローバリゼーションへの回帰を可能にするからである。ここには「グローバリゼーション=ウイルス拡散」と「寛容さ」の観念連合が存在しているのかもしれない。また、実際問題として、いずれ新型コロナウイルスが弱毒化し、季節性の感染症として定着するならば、それは社会の「ウイルスとの共生」が成就するということにもなるのであろう。
 しかし翻って、現下のパンデミックが明らかにしたのは、グローバルな防疫体制を抜きにしては現在のグローバリゼーションを維持することは不可能であるという事実であったはずである。グローバリゼーションに「寛容」という意味づけをし、「ウイルスとの共生」を謳う言説は、そこに至るまでの時間を宙づりにしている。つまり、われわれはいま現在パンデミックのさなかにあるのだということを忘却させるのである。こうした身振りは「あたかもコロナ禍は過ぎ去ったかのように」振る舞うことで実現される。だが、パンデミックのさなかでもっともダメージを被るのは貧困層であり、マイク・デイヴィスのいうように、アウトブレイクはヘルスケアの面では純然たる階級ごとの配分を暴露するのである(註8)。
 「ウイルスとの共生」を訴えるティモシー・モートンの哲学は、たしかに行政のいう“with Corona”ほど単純なものではない。モートンの議論(註9)はカール・シュミット的な友敵理論を排し、友になるか殺人鬼になるかわからないものと共生することで、生の意味づけを考えようとする議論である。しかし、ここでもやはり階級の問題は排除されている。ウイルスは貧困地域相手であれば、それだけよりいっそう殺人鬼になる可能性が高まるのである。

 要約すれば、現在のグローバリゼーション再評価の言説は、排他的な国民国家ーーこれ自体は正しいーーに対してグローバリゼーションを寛容なものと意味づけるものである。さらに「ウイルスとの共生」というテーゼは、本来不可欠であることが明らかになったはずの防疫体制の構築の代替品とされ、かかる“共生”にいたるまでの時間さえも宙づりにすることで階級問題を隠蔽しうるのであり、それゆえにグローバル資本主義を回帰・再構築する際の礎となりうる言説であるといえるのである。これに対するワクチンとしては、コロナ禍を気候変動の一部として理解することだろう。ウイルスはともかくとして、気候変動とは“共生”できないからである。

3. 感染・免疫というメタファー

 コロナ禍における一連の様々な言説の中では、パンデミックや免疫について語られるだけでなく、別の問題を語るときに「感染」や「免疫」、「ウイルス」というメタファーが用いられることもあった。本節では、ジャック・デリダが『ならず者たち』でとりあげた「自己免疫」という概念に影響を受けていると思われる香港出身のYuk Hui の議論(註10)について考えることにする。

 前節では、従来のグローバリゼーションの機能不全について触れたが、「自己免疫」という比喩ーーYuk Hui によればコロナ禍においてそれはもはや比喩ではなくなったのだがーーは、まさにこの側面に焦点を当てた表現であるとみることができる。ここでは元のデリダのテクストの文脈に照らして検討することはしない。しかし、Yuk Hui の議論が優れている点は、国民国家のもつ排他的な側面を強調したところで、そこから翻ってすぐに、機能不全に陥ったグローバリゼーションの再構築を主張したりすることはないという点である。むしろ、現在のグローバリゼーションと国民国家を共犯的なものと見ており、その通俗的な二項対立を脱却しようとするものである。
 だが、国民国家が排他的な側面をもつという議論やグローバリゼーションの機能不全といった問題自体はきわめてありふれたものであり、コロナ禍で新たに焦点が当てられた問題であるとは言えない。また、国民国家と現在のグローバリゼーション・システムとをセットで認識し、その問題の根源を単一な技術文化に存すると理解することで、techno-diversityへの展開を説くYuk Hui の議論はたしかに興味深いものである。しかしそれも技術論を専門とするYuk Hui の通常営業ではある。

 ここで、コロナ禍において変容したものとして、われわれの論点にとってむしろ重要なのは、「自己免疫」という表現が比喩としてはもはや成立しなくなってしまったという事態、その指摘にあるのではないか。

 ではそもそも「自己免疫」とは何か。自己免疫とは、「自己免疫疾患」の略であり、「免疫系が正常に機能しなくなり、身体が自分の組織を攻撃してしまう疾患」のことである。かつて柄谷行人が自己免疫的なものを強調していたことを想起してもよい(註11)。「自己免疫」が比喩でなく現在のグローバリゼーション・システムを意味する表現であるということは、世界が文字通り自己免疫疾患に罹患しているということである。すなわち、自身の防疫システムそれ自体によって世界システムは破壊されているということを意味することになる。
 デリダ-Yuk Huiによれば、世界システムの「自己免疫」が顕在化したのは9.11であるので、現在のパンデミックではない。パンデミックが変化の契機であったとすれば、この括弧が取れたことにある。たとえばレイシズムの全ての形態は、Yuk Hui にとって免疫学的な反応として理解される。「自己と他者を区別し、他者を介した不安定なものに反応する」という点において、それは免疫学的なのである。パンデミックにおいて「自己免疫」の括弧が取れたということは、こうした排除の言説/実践が「防疫」の名においてことごとく正当化されるようになったということである。あらゆる秩序/実践の基準の最上位に「防疫」を置くということである。

 パンデミック下では、これ自体はそれほど間違ったことではない。少なくとも新型コロナウイルスの脅威を否認するような一部右派の言説に比べればマシかもしれない。だがそれはしばしば、「中国人お断り」の貼り紙のような、医学的根拠の全くない純然たるレイシズム的振る舞いさえ“正当化”してしまう。これまでは比喩表現としての「免疫」によって排除・破壊していたものを、これからは防疫の名の下で一元的に排除・破壊することができるようになったからである。
 この事態が示しているのは、疫学的知識とそれを統治に用いる政治体制との不和であり、世界システムが自己免疫疾患に罹患している所以である。Yuk Hui によれば、新たなグローバル防疫システム(co-immunism)の構築は、国民国家を以ては不可能であるということだが、これは国民国家がシュミット的な友敵理論に基づいた存在であり、防疫システム内の細胞としては機能し得ないからだという。

 Yuk Huiの議論の特徴は、パンデミック下で成立した秩序の基準の最上位としての「防疫」という観点をたんに退けるのではなく、それが機能不全に陥っている原因を現在の世界システムに見出すことであった。実際、「共-免疫主義(co-immunism)」というYuk Huiのヴィジョンにおいても、ーーそれが新たなる共産主義と親和的であるという点も重要とはいえーー、「防疫」を最優先とする視点は失われていない。それがtechno-diversityという彼の議論とどう有機的に結びつくのかが些か不明瞭なだけである。また、それによって従来の排除や破壊がなくなるという保証も十分ではない。

4. 結び 

 本稿では、コロナ禍において展開された様々な議論の中からいくつかを選択し、そこで扱われたトピックの意味づけの変遷を追ってきた。そこではグローバリゼーションへの回帰や階級問題の否認へと導くような論理の展開がなされていた。パンデミック下において多くの国でクーデターこそ起こったが、革命はついぞ起こらなかった。コロナ禍を経た左派の役割は、パンデミックによって際立たせられることになった「防疫」という視点を維持しながら、それを従来の左派の問題系といかに有機的に接続しうる議論を展開できるかという点に尽きているのではないだろうか。


5. 補遺

 本発表の際、当日の質疑において、批評家の菅孝行氏より次のような質問を受けた。曰く、一方では「いつでも、どこでも、何度でも」希望者にはPCR検査を受けさせるべきだという保坂展人(世田谷区長)のような主張がある。しかし、検査というのは必要が認められた場合に患者が希望すれば受けることができればよいのであって、「いつでも、どこでも、何度でも」というのはやりすぎである。他方では、「コロナはただの風邪」だと宣うクラスターフェスがある。コロナに対しては、このように両極端な反応は出てくるのに、肝心な適切な対応こそなかなか出てこないというのは一体どうしてなのか?それは思想的にはどのように説明することができるのか?、と。

 この質問については部分的な応答にはなるが、以下のように答えることができる。すなわち、「コロナはただの風邪」も、「いつでも、どこでも、何度でも」も、コロナという現実的な脅威に対する二種類の応答形式である。クラスターフェスはこの脅威を全く否認するという形で応答し、後者はこの脅威のもたらす不安に耐え得ないのである。

[註]

1) 一例として、Alain Badiou, “On the Epidemic Situation” translated by Alberto Toscano, 2020.3.23.

2) 宮沢孝幸(2020)「新型コロナウイルスは社会構造の進化をもたらすのか」, 『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』, 河出書房新社, p64-68.

3) 奥野克己(2020) 「「人間以上」の世界の病原体 多種の生と死をめぐるポストヒューマニティーズ(1)」, 『現代思想 感染/パンデミック』, 青土社, p207-215.

4) John Horgan, “The Coronavirus and Right-Wing Postmodernism”, 2020.3.9.

5) 「クラスターフェス」に類似した現象自体は、日本に限らず世界中で起こっている現象である。たとえば韓国では、新宗教団体「サラン第一教会」は「コロナは外部からのバイオテロによるものだ」として、光復節にソウル市中心部光化門前広場にて文在寅政権糾弾デモ集会を開催した。

6) 斎藤環, 「コロナ・ピューリタニズムの懸念」2020.4.20.

7) ユヴァル・ハラリ「人類はコロナウイルス といかに闘うべきかーー今こそグローバルな信頼と団結を」2020.3.15ほか

8) Mike Davis, “Mike Davis on COVID-19 : The monster is finally at the door”, 2020.3.19.
マイク・デイヴィス「これは最後の闘争だ」2020.4.30.

9)  Timothy Morton, “Thanks Virus for Symbiosis”

10) Yuk Hui, “One Hundred Years of Crisis”, 2020.4.

11) 柄谷行人(1984)「物語のエイズ」, 『批評とポスト・モダン』福武書店,  

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