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コロナ・ピューリタニズムの懸念


 疫病は倫理観を書き換える。14世紀にヨーロッパの人口の約30%(地域によっては80%)を死亡せしめたペスト(黒死病)は人々の死生観に影響を及ぼし、「メメント・モリ(死を思え)」なる標語を生んだ。一方、18世紀におけるイギリスでのペストの流行は、故郷に疎開して思索に集中できたアイザック・ニュートンに万有引力の着想をはじめとする「三大業績」をもたらした。15世紀から16世紀初頭にかけて急速にヨーロッパに広まった梅毒は、イギリス人の意識と社会的身ぶりとを変え、ピューリタニズムをもたらしたという説がある。
 20世紀末から流行したHIVは、当初は罹患者の特徴から、同性愛やドラッグカルチャーに対する神罰、といったニュアンスでとらえられた。粘膜を介しての血液の交換が危険であると理解されてからは、避妊のためではなく、いわば「粘膜への禁欲」としてコンドームの使用が大々的に推奨された。
 そして現在、新型コロナウィルス(SARS―CORVID19)のパンデミックが進行中である。4月19日の時点で、死者数は全世界で16万人を超えた。いまだ特効薬もワクチンもあてにできない未曾有の状況下で、全世界はひたすら息を潜めて死者の数を数え、フェイク混じりの報道に一喜一憂し、ことのなりゆきを注視している。医療現場は疲弊し崩壊しつつある。近い将来、抗ウイルス薬かワクチンが製造されるのか。あるいはさらに膨大な死者をもたらした後に集団免疫が確立されるのか。感染症である以上、いずれは終息することは間違いない。ただその時期が、半年後なのか1年後なのか、あるいはもっと先なのか、その予測はまったく立てられない。

 COVID-19はおよそ「凶悪な敵」の顔をしていなかった。ウィルスとしてもインフルエンザより少し感染力が強い程度、と言われていた(最近になってWHOは「致死率はインフルエンザの10倍」と発表している)。二次感染ではなく直接肺炎を起こすという点では恐ろしい面もあるが、8割以上の感染者は回復する。最大の問題は、不顕性感染の多さだ。
 感染しても無症状のものが多く、潜伏期間も長いため、感染に気づかずウィルスをばらまく人が大量に存在する。やむを得ない事情があったとはいえ、検査が十分になされないこともあって、感染の広がりも正確には把握できない。このため、潜在的にはすべての人が感染している可能性を持つ。
この時代に求められる適切なマナーとはなにか。「あなた自身がすでに感染している前提でふるまいなさい」である。私の記憶では、このアドバイスが最初に現れたのは、2020年3月12日に配信された「BBC Newsnight」の動画”Coronavirus: Can herd immunity protect the population? “におけるGraham Medley (ロンドン大学衛生熱帯医学大学院教授)の発言だった。行動変容を促すアドバイスとしてはまったく正しい。私も彼の動画をリツイートした。
 その一方で、こうも考えた。この教えはまるで「原罪」意識の示唆に似てはいないか? 原罪とはキリスト教においては、アダムが神に背いた結果、全人類がそれを継承することになった罪のことである。自身が罪を犯した(感染した)という事実の有無にかかわらず、自身には罪があるという前提で考え、ふるまうことが社会的に要求される疾患は、これが最初のものではないだろうか? あるいは20世紀初頭のスペイン風邪も、人々の同様の意識を喚起したのだろうか?

 そもそもウィルスそのものが、原罪的な位置付けを持つ「存在」だ。神戸大学の中屋敷均によれば、ヒトゲノムには「たくさんのウイルスが入り込んで」いるのだという。言い換えるなら人間のゲノムは、単独の自己として進化したと言うよりも、ウイルスのような外部からの侵入者も取り入れて進化してきたのだという。人間の進化とウイルス感染は切っても切れないつながりがあるというわけだ。
 さらに言えば、ウイルスの強毒化のような変異をもたらすのもまた人間である。抗ウイルス薬が開発されるたびに、それに耐性を持つウイルスが出現する。あるいはエボラ出血熱のウイルスのように、本来の自然宿主はコウモリで、もともと熱帯雨林の中で静かに維持されていたものが、開発が進む中でヒトという本来の宿主ではない生物に感染して重篤化した例もある。COVID-19も武漢の海鮮市場が発生源と推定されているが、食用もしくは漢方薬の原料として数多くの動物が市場にひしめいており、ウイルスがある動物から別の種類の動物にうつったさいにその動物を「増幅動物」として増殖し、市場で人に感染した可能性が疑われている。つまり人間の文明を媒介として、ウイルスの脅威が増幅された、という側面があるのだ。
 ウイルスなくして人間はなく、人間なくしてウイルスはない。この関係性は、人間と「原罪」の関係と相似形をなしてはいないだろうか。そうだとすれば、原罪がそうであるように、ウイルス感染もまた、われわれの倫理的な基盤となる可能性を考えるべきではないだろうか?

 COVID-19のパンデミックが続く中で、われわれは先述した「原罪」意識に基づいた、奇妙な倫理観を獲得しつつあるのではないだろうか。仮にそれを「コロナ・ピューリタニズム(以下CP)」と呼んでおこう。
 日本でも4月16日に全国に緊急事態宣言が発出され、すべての人々はさまざまな活動を8割程度自粛するよう要請されている。不要不急の外出は控え、経済活動も控え目にして、おとなしく自宅にひきこもって疫病が終息するのを待ちなさい、と。この要請には疫学的な根拠があり、ほぼ反論の余地はない。個人の命を守り、社会をウィルスから守りたければ、一人一人がこの要請を受け容れ、公共のために協力するほかはない。

 問題があるとすれば、この要請が、純粋に医学的なものであるにもかかわらず、きわめて倫理的要請に似て見えるという点だ。私たちは今、医学や科学の名において、かつてない規模と程度で倫理的にふるまうことを強く求められているのではないだろうか。
 なぜ外出が好ましくないのか。人々の交流が感染の確率を高めるからだ。すべての人々は潜在的な感染者として交流を禁じられることになる。それは全人類が原罪を抱えているという想定のもとで神の恩寵が要請されるキリスト教の教義を連想させる。その結果、外出が、外勤が、外食が、旅行が、交際が、ことごとく「罪」のニュアンスを帯びてしまう。いずれかの禁を破って感染した者は、おのれの原罪を否認した咎(とが)によって、批判の矢面に立たされる。感染者批判はすでに起きているが、韓国で起きたような回復者差別が日本で報じられるのも時間の問題だろう。

 CPは、ほとんど「晴耕雨読」の勧めである。できるだけ他人と交わらず、一人耕作(テレワーク)にはげみ、勤務時間外は読書などに勤しむ。足ることを知り、天地を恨まず、身の丈以上の浪費や蓄財もつつしむ。ネットでの娯楽は辛うじて許容されるが、劇場やコンサート会場に出かけることは禁じられている。事実上の歌舞音曲の禁止である。飲酒は禁じられてはいないが、長期のひきこもり生活がアルコール依存症につながりやすいと繰り返し警告されている。喫煙に至ってはコロナの致死率を高める危険があるという理由でほぼ禁止に近い。
 長期のひきこもり生活はうつ病発症のリスクが指摘されており、その予防策として「規則正しい生活」「日光を浴びる」「十分な睡眠とバランスの取れた食習慣」「適度な運動」が推奨されている。まったく正しい。そして残念ながら、正しいことはまことに味気ない。
 かくして私の専門としてきた「ひきこもり」こそが、CPのもとでは最強のライフスタイルとなった。冗談ではなく、私は日本でCOVID-19の感染の広がりが比較的遅かったのは、推計200万人に及ぶ人々がひきこもり状態にあることが主因の一つと考えている。彼らに対する偏見は、いまこそ修正されなければならない。ひきこもって生き延びるだけで価値が生み出されることがはっきりしたのだから。
 ならば、ひきこもりは倫理的な生活なのだろうか。ここで私が連想するのは山形孝夫『砂漠の修道院』(平凡社ライブラリー)である。エジプト総人口の1割を占めるというコプト教(キリスト教の一宗派)の修道士は、あらゆる文明を拒否し、一人で不毛の砂漠に分け入り、あるものは、自分ひとりのための洞窟を穿ち、人とのつながりをすべて断ち切って死んでいくという。彼らがそれを神に近づくための唯一の道であると信じている以上、「ひきこもり=倫理」という発想は荒唐無稽と否定し去れるものではない。

 CPがもたらしたまったく新しい“倫理観”は「他者に触れてはならない」である。他人の身体との接触の禁止。これはHIV流行時の、粘膜に関する禁欲主義よりもはるかに厳格で徹底している。日常的な挨拶(ハグやキスを含む)や、ことによると対話ですらも、「体液(エアロゾル)の交換」であることが判明したためだ。われわれは、体液の交換を伴うであろう一切の接触を禁止されている。
 つまり、ここに至って「親密さ」は、体液の交換として再定義されたのだ。もちろん、他人と“知り合う”ことはいささかも禁止されていない。ネット上で知り合いたければ、それはいくらでもどうぞ。しかし親密な関係性は築かれないだろう。親密な関係は、その人に身体的に寄り添い、声を交換することなくしては構築が難しいからだ。そして、寄り添いも対話も、そのままエアロゾルという体液の交換にほかならないのだ。
 エアロゾルの飛散と交換を防ぐマスクによって、表情による感情の交換すらもほぼ不可能となった。「社会的距離」という流行語も、親密さの禁欲として拡散しつつある。日本ではさらにわかりやすく「三密の禁止」という形をとってはいるが。三密もまた、親密さを醸成するうえでは欠くべからざる要素ではなかったか。
 当然のことながら、親密さの抑圧は恋愛の不可能性につながるだろう。三密を禁じられ、社交距離を測定される環境下では、新しい恋愛の実践は実質的に不可能だ。性愛は夫婦か同居するパートナーのみに許されたものになるだろう(それすらも危険という指摘もある)。性愛においても、われわれはかつてないほど高度な禁欲を〈自ら進んで〉強いられている。
 ましていわゆる風俗産業をはじめとする性的サービスは、クラスターの発生源として完全に駆逐されようとしている。感染と世間体を恐れる客はコロナ禍の終焉まで禁欲し、AVの無料ストリーミングサービスなどを活用して自身で処理しようとするだろう。あらゆる身体接触が禁止され、バーチャル・セックスが流行する社会を描いた映画「デモリションマン」を思わせるディストピアが、一時的にせよ現前しつつある。
 「身体接触」ならびに「親密さ」のタブー化は、なかば必然的に監視の強化につながる。韓国の保健当局は、国民の個人情報を詳細に把握しており、感染者が出た場合にどこにいたか、誰と会ったかを直ちに把握しスマホなどを通じて情報を拡散する「監視社会」を作り出した。安全とプライヴァシーの交換においては、ためらいの介入する余地はほとんどなかっただろう。パンデミックの緊急事態下では「生権力」が最大化する。日本ではこれほどの徹底は困難だろうが、それでも感染追跡アプリなどを用いて感染者の行動把握を強化する動きがはじまっている。
 CPの風潮に絶望し、うんざりしたあなたには、しかし自暴自棄になることすら許されていない。あなたがやけを起こして感染すれば、それはただちにあなたの家族、友人、隣人と言った親密圏の人々をリスクにさらすことになるからだ。韓国には自粛に疲れた人々が「もうどうにでもなれ族」と化して花見に繰り出したという。あるいは死者がついに4万人に至った米国では、外出制限への抗議デモ(三密!)が続発している。このきわめて「人間的」なニュースを少しでも批判的に聞いた人は、「自暴自棄は罪」という新しい倫理観を獲得していることになる。そう、まるで集団免疫を獲得するように。

 COVID-19のパンデミックは、いつかは終息する。それは間違いない。その後に何が来るだろうか。確実に言えることは、「親密さ」の禁欲がただちに解除され、祝祭的な反動が訪れるであろうことだ。その後にいくつかの後遺症を遺しつつも、徐々に「経済」と「社会」が、そして「日常」が回復されていくだろう。むしろそうあらねばならない。

 私の念頭にあるのは、現在のパンデミック下で獲得されたCPの意識が、無意識に未来に継承されてしまうことへの懸念である。いまや「他者」は、単なる外部の存在、異質な存在であることのみを意味しない。他者は「疫学的他者」となった。手術室では人体は無条件に「不潔」であり、人の素手が触れたものはことごとく「汚染」されたとみなされるが、これに近い清潔意識が一時的にせよ普及したのだ。社会的距離の感覚と相まって、他者の「不潔」性の感覚が、われわれの身体にインストールされた。パンデミック経験のトラウマ性が、そうした感覚をいっそう拭い難いものにするだろう。
 CPには、しかし確実に保健や治安に寄与する面があり(すでに犯罪率は減少傾向というデータがある)、ひきつづき倫理観として機能し続ける懸念がある。ある種の業務はテレワークのほうがはるかに効率化されることに人々が気付きはじめれば、CPは資本主義にすら貢献するだろう。さらにCPは、パノプティコン以上に強力な自己監視と自己統制のルールとして内面化されてしまう恐れもある。一切の超越性と教義を欠き、エビデンスとルールのみで構成された倫理が人々の内面まで支配してしまうこと。やはりそれはディストピアと呼ばれるべきではないだろうか。

 本稿の結論はシンプルである。パンデミックの教訓は、次のパンデミックのためにとっておこう。CPは、緊急事態宣言やロックダウンと同様に、緊急事態をしのぐためのルールでしかない。このタブーは平時には「有害」である。それは対話を、関係を、そして物語を毀損するからだ。たとえあなたがCP的世界を意外なほど快適であると感じていたとしても、CPそのものはポストコロナの日常においては有害な価値規範となりうる。


 コロナ以降に残された課題は多いが、私が主張したいことは以下のことだ。もう一度マスクを外し、主体的に、エアロゾルとともに、3つの「密」を回復しよう。それは対話と関係と物語を、つまり人間と社会を修復することを意味するだろう。しかし同時に忘れるべきでないことは、私たちはもはや親密さに基づいた対話や関係を、かつてのような自明性のもとで享受することはできないし、またそうすべきでもないということだ。CPの広がりは、思いのほか多くの人々が、接触回避を享受しそこに快適さを覚えているという事実すらも浮き彫りにするだろう。そうした人々が再び排除されてしまわないためにも、修復を進める手続きには十分な繊細さと配慮が求められなければならない。


※ 本稿は2020年4月15日にTwitterに投稿した以下の内容をもとに発展させたものである。




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筑波大学 医学医療系 社会精神保健学 教授 医学博士 精神科指定医 精神科専門医