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サロンえんとつ町ーー『えんとつ町のプペル』と西野亮廣という父

 西野亮廣原作の映画『えんとつ町のプペル』が話題になっているらしい。それは単に、今年1月の国内映画興行収入で現在3位につけており、先日には日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞を受賞した、という理由だけではない。特にオンラインサロンという西野氏のビジネスモデルとの関係においても、それは善かれ悪しかれ注目を集めてはいる。
 また、西野氏の“悪名高さ”ゆえに、実際に観に行った人たちのレベルを超えて、映画そのものも一種の「炎上」の様を呈している。これに対して、『海獣の子供』などで知られる高名なアニメ製作会社STUDIO 4℃が関わっていることなどを引き合いに、西野氏の挙措とは別に映画自体のクオリティの高さは認めるべきだという論(註)も散見される。確かにこれは一理ある。音響や色彩は美しかったし、途中途中のミュージカル調の挿入も楽しく鑑賞できた。後者はインド映画など彷彿とさせたが、原作が絵本ということもあり子供を飽きさせないための工夫でもあろう。


 だが、筆者が本稿で主張したいのは別のことである。それは西野氏の挙措とこの作品そのものが密に関連しているということである。西野氏の抱えるイデオロギー的矛盾が、そのまま作品内部の矛盾として表出しているのだ。これは逆に言えば、作品の批評を推し進めると西野氏自身の問題に行きつく、ということでもある。より、端的に言おう。この作品に“共感”するのであれば、必ずや西野批判に至らざるをえない。西野オンラインサロンこそ、えんとつ町ではないか、ということだ。以下で示すのは、このようなことである。


1. あらすじ、そして父について【以下、ネタバレ】

 本題に入る前に、少しだけあらすじに触れておく。以下が教科書的なあらすじである。

舞台は、たくさんのえんとつが立ち、空が煙に包まれた町。主人公ルビッチの父ブルーノは、この町を「えんとつ町」と呼んでいた。ブルーノは煙の外には星があると信じており、ルビッチは父の死後もひとり星を信じつづけている。ある年のハロウィンの日にゴミ人間が現れた。その姿がハロウィンの仮装でないことがバレてしまったゴミ人間は異端審問官に追われる身となるが、うまく逃げおおせ、ルビッチと出会う。ルビッチはゴミ人間に「ハロウィン・プペル」と名づけ、友達になる。ルビッチは煙突の上でプペルに二人の秘密として星の話をするが、プペルはうっかり他の子どもたちにその話を漏らしてしまう。プペルは袋叩きにあい、ルビッチ共々お尋ね者になる。約束を破ったプペルはルビッチと一時決裂する。プペルは、失くなっていたブルーノの形見のブレスレットをルビッチの元に持ち帰る。ルビッチはプペルの仕草に父ブルーノの面影を見る。その時、プペルの心臓が大きく鼓動を打ち、海に大きな船が浮かび上がる。ルビッチは船に気球を括りつけ、空で火薬を爆破し煙をはらうことを思いつく。二人は炭鉱泥棒スコップを訪ね、無煙火薬を分けてもらう。スコップはブルーノと旧知の仲であり、星の話を知っていた。異端審問官らの妨害を受けるも住民の加勢もあり、二人は煙をはらい、星空を解放することに成功する。そのときブルーノとしての記憶を取り戻したプペルは最後の言葉を残して崩れ落ち、消滅する。


 原作の絵本はネット上で無料公開されており(註2)ネタバレも何もないのだが、映画化に際していくつか設定の変更や、原作ストーリー上の弱点の補強がなされていた。映画では主人公ルビッチの父ブルーノの仕事は、原作の漁師から仕立て屋に変更されているし、母ローラは喘息で車椅子の病身へと変更されている。ちなみにこの喘息は、四六時中えんとつから排気される煙によるものと作中で示唆されている。もうひとつ重要な変更としては、原作ではあまり描かれなかった、主人公と父の関係がわりあい丁寧に描かれている点である。「父子の絆」がこの作品の軸の一つになっており、この説明がなければルビッチが父の物語ーー煙の外には星があるという話ーーを信じつづけていることに説得力がなくなってしまうのである。
 実際、この映画の優れた点の一つは、父ブルーノの描かれ方にある。それは、原父になれない父である。息子のルビッチから見ればブルーノは頼れる父ではあるのだが、仕事はするが呑んだくれで、お伽話(と思われていた)の紙芝居ばかりやって見せ、息子に難癖をつけたチンピラに喧嘩を挑むも結局は負けてしまう、そういう父親として描かれている。
 さて、ブルーノの紙芝居は体制のタブーに触れており、彼はやがて暗殺されてしまうのだが、ルビッチの「友達」になったプペルが、実はゴミ人間として戻ってきた父ブルーノであったことが終盤で明かされる。そしてその直後、ブルーノの紙芝居の物語がルビッチによって成就されたのを見届けて、プペル=ブルーノも消滅する。「抑圧されたものの回帰」や「症状の消失」といったこれらの描写は極めて精神分析的であり、西野亮廣はここではフロイト主義者としての相貌を見せてくれる。

2. 『えんとつ町』の逆説と、その可能性の中心

 いくつか基本的な設定を確認しておこう。物語の舞台、えんとつ町はその名の通り煙突だらけで空は真っ黒な煙に覆われており何も見えない。主人公のルビッチは子供ながら煙突掃除屋であり、父ブルーノの物語を信じて煙の外には星があると信じているが、街の人々はそれをデタラメの夢物語だと思っている。だがブルーノが暗殺されたことからわかるように、煙の外に星があるという話は明確に体制のタブーに触れるものであった。星の存在は「町の外部」の存在を意味しており、このことは「外の世界などないのです」という影の独裁者トシアキのセリフに裏づけられる。
 「外部への脱出」というテーゼ自体は、SFから現代思想までしばしば扱われる普遍的なテーマではある。またこの作品では、主要な社会問題の一つは住民たちの喘息であるが、これは外の世界を隠すためのえんとつの煙によってもたらされた公害であるので、外の世界を示すこと=星空を見せることが、即座にこの社会問題の解決に繋がるという性質をもっている。「星を見ること」は、単なる夢にとどまるものではない。

 先述のように、えんとつ町の支配層は住民が「外の世界を知ること」を極度に恐れている。町中には異端審問官と呼ばれる官憲が跋扈しており、ブルーノのようにタブーに触れた存在を秘密裡に消す役目を果たしている。こうした共同体の矛盾に気づき外部に至りうる可能性をもっているのは、マルクスを引くまでもなく共同体の周縁部に追いやられた人々である。事実、主人公ルビッチは母子家庭に暮らすエッセンシャルワーカー(しかも児童労働者)であり、相方のゴミ人間プペルはそれ自体、社会の隅の人目につかない場所で処分されるゴミである。また彼らを共同体の中枢まで連れて行くのは、世俗秩序の紊乱者である泥棒スコップであり、いわゆるトリックスターの役割を果たしている。
 序盤のゴミ処理場での脱出劇は、ルビッチとプペルの劇中最初の冒険だが、この場面は非常にシステマティックに描写されている。ルビッチとプペルは機械仕掛けのゴミ処理場を逃げ回り、トロッコに乗り込む。(ところどころ欠陥のある)システムの上を器用に立ち回る様は、新自由主義的なメンタリティーを忠実にモデル化したものと言える。終盤クライマックスの冒険もこの延長線上で捉えることができるので、単なる革命運動ではなく起業家精神的なそれーーイノベーションなるものーーとして理解すべきなのだろう。


 さて、本作において筆者がもっとも違和感を感じたのは、終盤で明かされるえんとつ町の成立譚とその今日的な帰趨である。それは次のようなものである。かつて、人々は広がる貧富の差のもとに置かれていた。経済学者のシルビオ・レターは、その理由を貨幣に見出した。貨幣は他の商品と異なり腐ることがない。だから人々は貨幣を貯めこみ、貧富の差が広がるのである、と。そう考えたレターは、時間が経てば経つほど価値が下がる「腐るお金L」を作り出す。その結果、人々は積極的にお金を使うようになり貧富の差は縮まったが、レターは政府により処刑されてしまう。弾圧を逃れるため亡命した人々は、外界から閉ざされた場所に「えんとつ町」を建てた、というものである。人々は「お金の奴隷から解放された」と言われており、この辺りには西野氏の考えが濃厚に反映されていると思われる。
 だが、「えんとつ町」体制派がもっとも恐れていることは、外からの弾圧や侵略ではない。住民たちが「外の世界を知ること」なのである。弾圧から逃れるだけなら、独立で十分なはずである。ユートピアであるはずのえんとつ町が、わざわざ鎖国し、住民を閉じ込めなければならないのはなぜか?この問いに、説得力のある答えが与えられることはない。そもそも、えんとつ町でも貧富の差が解消された様子はないーーあるいは誰もが貧しくなったのかーー。とはいえ、西野氏の経済“思想”の誤謬自体は指摘されつづけているので、本稿では触れない。

 ここで注目したいのは、本来なら外部=ユートピアであったはずの「えんとつ町」がポップなオセアニアと化してしまうという逆説である。この逆説は、「外に飛び出せ!夢を信じろ!挑戦しろ!」という人たちが閉鎖的な集団を形成してしまうという西野氏のイデオロギー的屈折を、忠実に表象している。えんとつ町こそ、西野オンラインサロンにほかならない。だとしたら、この逆説を極限まで突き詰めることが、この作品と西野氏に対する相応しい応接であるはずだ。
 オンラインサロンの有料会員たちは、身銭を切ることでサロンという共同体の存在自体を支えるエッセンシャルワーカー、いわば煙突掃除屋である。彼らは星にもっとも近い場所にいながら、彼ら自身がメンテナンスする煙突から出る煙によって、星からは完全に隔てられている。
 だが『えんとつ町のプペル』の物語で最終的に勝利を収めたのは、無煙火薬を使って空をおおう煙をはらったルビッチとプペルであった。この作品に共感・感動した人々がいるとすれば、この二人に共感したはずである。独裁者トシアキや異端審問官に共感した人は稀であろう。そうだとすれば、サロンのメンバーたちこそ、ルビッチのように煙突掃除屋をやめて外に出ていくべきなのではないか?それだけの勇気を与えてくれる作品ではある。


 西野氏自身の意図としては、自分をルビッチになぞらえたかったのだろう。だがすでに示したように、実際には失敗している。その原因はおそらく、西野氏自身がサロンにおいて父権的な存在、「原父」と化してしまったことにある。オンラインサロンのボスが「原父」と化すことは珍しくない。だが「原父」は共同体において規範的存在(超自我)としてふるまうことになるため、結果的にその集団は閉鎖的なものになってしまう。サロンのボスとして西野氏は、ブルーノのような「原父ならざる父」になるべきであったのだ。 

 ところでフロイトによれば、共同体維持のために「原父」は息子たちによって殺害されなくてはならないという。悪名高いオイディプス・コンプレックス理論である。あくまで神経症的な構造にとどまることになるとはいえ、『えんとつ町のプペル』は、サロンのメンバーたちに「父殺し」を促してくれる作品ではあったはずだ。
 以上のように『えんとつ町のプペル』には、閉鎖的共同体の外部に脱出するためのカギがある。これこそが、この作品の可能性の中心として、外部に開かれてあるのだと思う。


 CDB「映画版『えんとつ町のプペル』の出来そのものは良いからこそ厄介という、かなり面倒くさい話」, 2021年1月28日最終閲覧。
山本愛生「映画『えんとつ町のプペル』にモヤっとした理由を考えてみた【感想】」2021年1月28日最終閲覧。ただし、山本氏は、ストーリーの未熟さも指摘している。


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