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映画版『えんとつ町のプペル』の出来そのものは良いからこそ厄介という、かなり面倒くさい話

少々というか、かなり面倒くさい話をする。

サロン商法でネットで今ぶっ叩かれている西野亮廣氏(何が問題でどう叩かれているのかは「西野亮廣 プペル」で検索すると山ほど出てくると思うので省略する)が制作総指揮の『えんとつ町のプペル』というアニメーション映画の、アニメーションのクオリティ自体は極めて高いのである。これはちゃんと見たのでマジである。

当たり前の話で、アニメーションを実際に制作しているのは「制作総指揮・西野亮廣」ではなくstudio4℃という名高いアニメ会社であり、これは『鉄コン筋クリート』とか『海獣の子供』といった名作を過去にアニメ化してきた、日本有数に実力のあるアニメスタジオなのだ。西野亮廣がどうこう以前に、実質的な制作の大部分はstudio4℃が担当しているのだから、クオリティはそりゃ高いに決まっているのである。(西野亮廣は元になった絵本を描いたことで原作者・制作総指揮として大々的にフィーチャーされているが、映画を見ればわかる通り、絵本はほとんど「元ネタ・題材」レベルでしかなく、本質的な演出や技術は映画スタッフのものである)

僕も見たのだが特に今作は、ファンタジックな絵本の2D絵柄と3Dアニメの融合に成功しており、これは西野亮廣のあれこれを知らない海外の映画ファンが見たら普通に高く評価すると思うし、なんならアニメーション関連の海外映画賞のひとつも取ってまったく不思議ではない。それくらいアニメの出来自体は良い。

もちろん海獣の子供や鉄コン筋クリートといった圧倒的名作マンガに比べると西野原作、ストーリーの弱さというのはハッキリしていて、そこがやや足を引っ張っている面はあるのだが、基本的にそこは「子供にもわかるファンタジーだからあえて複雑なストーリーにしなかった」という逃げ道も用意されていて、それをカバーしてあまりあるほどstudio4℃のアニメーション技術は優れている。

映画「プペル」を見て率直に言って、面倒くさいことになった、厄介なことになったと思った。西野さんが自分のファン相手にサロンをやってる分には、まあネットの茶々入れも含めて好きにすればという感じであった。映画が駄作であり、ファン相手だけに商売しているのならそれもまた話は単純である。しかし問題は、西野亮廣さんの展開するオンラインサロンビジネスと、studio4℃という、これはガチで実力のあるアニメスタジオが資本の力で連結され、分かちがたく結びついてしまっている点なのである。

この面倒くささと言うのは、西野亮廣が秋元康プロデューサーだとしたらstudio4℃が平手友梨奈みたいなもので、秋元康Pの歌詞に対して「いくらなんでも古着が好きなくらいで『今日の生き方も誰かのお古なのか』みたいな説教される筋合いはねーよ」と思っていても、平手ちゃんのダンススキルと存在感は認めざるを得ないみたいな所があるわけである。ごめん逆に分かりにくいな。「避雷針」聞いたことないと意味わかんねーしな。じゃあ今のなしで。

で、だ。まあしかし、知っての通り、ネットでは西野商法への批判(これ自体は相応の理があると思う)の勢いで、映画「プペル」も見てないけどけなす、叩くというノリが主流になっている。これはちょっとまずい流れだと思う。

映画「プペル」を見ないでけなすことの何がまずいのか。まあまず第一には、映画を見ないで批判することそのものがあまり良くないというのも当然ある。しかし今回わりと僕がヤバいと思っているのは、「プペル」というのは前述したようにstudio4℃という日本のアニメスタジオでも有数の、しかも作家性の高いスタジオが実質的に制作をしてる作品なので、海外で評価されたり、何かしらの受賞をしても不思議ではないくらい良い出来なのである。CGという新しい技術と、絵本という古い芸術をstudio4℃はこの作品で見事に融合させている。これを「西野=プペル」みたいな形でネットで批判しまくっていると、実質的にstudio4℃の廣田裕介監督第一回監督作品である「プペル」が何かしらの形で評価された時、ネットで作り上げた「西野=プペル」という方程式に映画への評価が代入されて逆流し、「やはり西野さんはすごかった」という形でひっくり返されかねないのである。

まずい流れだと思う。というか、西野という人はこの流れを十分に狙っていると思う。

なんだかんだ言って西野亮廣という人物が非常に頭が良く、手ごわいんだな、と思うのは、最近の雑誌インタビューや窪田正孝との対談などで読む彼の言説が「俺は改革者である」という以前のトーンから「俺はネットの連中にこんなにも批判されて孤独だ、それでも俺は夢を諦めない」という「被害者の物語」に軸足を移している点である。被害者性政治というやつだ。そしてこれは「えんとつ町のプペル」という物語の中核をなすメッセージでもあるのだ。(追記:いま著書をあれこれ読み返してるのだが、けっこう昔から叩かれた叩かれたとブツブツ言ってるのでここは訂正します)

主人公のルビッチ(プペルは主人公の名前ではなくゴミから出来たロボットの名前である)は、町の子供たちに笑われ、いじめられながら、いつかこの町の上にあると父親が言った星空を見たいと願っている。「星なんてあるわけがない」と町の住人は主人公をいじめ、笑い、邪魔をする。この主人公を明らかに西野亮廣は自分自身に重ねている。彼が自分でそう思っているというよりは、ファンに対して「西野さんはこの少年のようにいじめられながら、星が見たいと思っているんだ」と印象付けている。要は数年前からネットでかなり起きている「西野商法への批判」を、彼は映画「えんとつ町のプペル」のストーリーとして組み込んでいるわけである。

当たり前の話だが、西野さんは「星が見たい」とか「夢をあきらめない」と言ったから批判されているわけではない。ついでに言えば孤独でもない。西野西野、という個人批判が見えなくさせているのは、そもそも彼は吉本興業という、日本の芸能界を半ば支配し政治や教育にも進出する巨大な複合企業とエージェント契約しており、徒手空拳のベンチャーに見える彼のビジネス、西野亮廣エンタメ研究所には吉本興業とのエージェント契約というバックアップがあるという点である。実際、「えんとつ町のプペル」にしても吉本興業の製作映画であり、到底クラウドファンディングでは調達できない規模の製作費で作られている。圧倒的な巨大企業の資本を背景に、まるで無頼のギャンブラーが命を賭けた博打を打っているみたいな顔で、本当に徒手空拳である一般のファンに対して「君もリスクを取って夢を追ってみないか」みたいなことを平然と言えるのが彼の天才的な所なのだが、実際には彼は自分の金を賭けるギャンブラーではなく、大手証券会社で顧客から集めた金を動かすディーラーのような存在なのだ。

だが「えんとつ町のプペル」の物語の中で、明らかに主人公のルビッチと西野亮廣は重ねられている。巧みだな、と思うのは、西野亮廣に心酔し、惜しみなく出資する彼のファンから見れば「これはまさに、周囲から嘲笑され孤立しても夢を追う西野さんの物語だ」と思えるように作ってあるし、西野って誰?という一般の観客や海外の観客にはふつうに「夢を追う孤独な少年のおとぎ話」に見えるように作ってある点だ。内部に対しては個人のプロパガンダとして、外部に対しては普遍的エンターテインメントとして機能する理想的な構造である。これは西野亮廣の計算だけではなく、吉本興業出資映画であれこれ注文をつけられながら、それでも良い作品を作りたいというstudio4℃の作家的良心が皮肉にも達成してしまった両立みたいな所があるのではないかとも思う。

こういう複雑な二重構造を持った作品に対して、「西野がインチキだから作品もニセモノだろう」という安直な批判をネットで加えていると、作品が評価された時に(前述のように、西野亮廣に重ねるために押し込まれた不自然で余計な設定やセリフのいくつかをのぞけば、僕はアニメーション作品として評価されうるし、また公平に評価して良く出来た作品だと思っている)、「西野=プペル」の方程式は逆流して「プペルが評価されたのだから、西野さんの才能は本物だったんだ。ネットでグチグチ言ってるだけのやつらは、この映画の町の住人と同じように何も分かっていなかったんだ」という逆転をもたらしてしまうわけである。仮に作品への評価がなかったとしても、過剰で無意味な攻撃は、「いじめられた子供があきらめずに夢を追う」というこの物語の構造に吸い込まれてしまう。というか、そうなるように作られている。

別に「プペルを叩くな」とか「プペルを見ろ」と言っているのではない。批判をあらかじめ組み込んで相当によく考え抜かれた、厄介なビジネスモデルであって、下手をすれば批判そのものが「ネットの誹謗中傷、足を引っ張る日本社会」という文脈で、いじめられながらもがんばり、そして結果を出した西野亮廣への同情票として還元されるような、巧妙なシステムとして考え抜かれているという話をしているのである。こう言っちゃなんだが、その点について西野亮廣という人物は、たとえば岡田斗司夫氏より数段頭がいいビジネスをし、結果としてもケタ違いに成功している。それはもちろん吉本興業の中にいるかもしれないブレーンも含めての話なのだが。

そしてそういう構造、西野亮廣のサロンビジネスと、studio4℃のガチのCGアニメクオリティ、技術力を結びつけてしまったのは、吉本興業という巨大企業の資本力なのだ。言うなれば、投資ファンドが優秀な中堅自動車会社を買収して「実態経済」にのし上がってきたようなものであり、ネットが叩いても、一般の映画観客が「プペル」を見たらかなりの割合で普通に良かったと思うレベルの作品になっている。そして困ったことに、観客たちの作品に対する評価はstudio4℃や廣田裕介監督ではなく、芸能人として知名度のある「制作総指揮・西野亮廣」に還元されるようになっている。ある種のソーシャルハック、シネマハックなわけである。

ホリエモン、堀江貴文氏はかつて、「アニメを作る」と岡田斗司夫とコラボしてクラウドファンディングで資金を集めたことがあった。もちろんあまりできの良い作品ではなかった。制作費150万円というのはあまりにもナメきった予算だし、そもそも作品も映画館で一般人を掴むためのものではない。完璧に閉じたビジネスである。だが、吉本興業という巨大企業の圧倒的資金は、studio4℃というアニメスタジオの実力を「制作総指揮・西野亮廣」のステイタスに組み込むシネマハックに成功してしまったわけだ。

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1605/16/news166.html

studio4℃という優れたアニメスタジオの才能が吉本興業の巨大資本によって映画制作が可能になり、しかも同時にその作品の評価が西野亮廣とファンの間の「出資」関係にブーストをかける。どこにも違法性はない。ファンに際限なく出資を求める行為にせよ、「あんたたちネット民がいつも良いことみたいに言っている『推しに貢ぐ』という行為とどう違うの、スマホゲームのガチャに何十万も注ぎ込むことを武勇伝みたいに言ってるネットの人たちに、どうして私たちがファンドに出資したり、プペルを何度も見ることだけがバカにされなきゃいけないの」と言われたら返す言葉もない。別に西野亮廣だけではなく、そういう社会に僕たちは生きている。西野亮廣は、そのシステムの中の一部を極限まで剥き出しにしているにすぎない。僕だって金がほしい。ほしいというか、正直な話、昨今の社会情勢で生活が圧迫されて(まあコロナ前から貧乏暮らしではあるが)、noteでも書いて売ろうか…と思いながらこれを書いているわけだ。といいつつこの記事は無料なのだが、そのうち有料記事も書いてみようと思う。その時はよろしく頼む。君もリスクを取って夢を見てみないか。まあウソですけど。

(追記:岡田斗司夫氏と堀江貴文氏のアニメはYouTubeで公開されていたため修正し、西野亮廣エンタメ研究所と吉本興業のエージェント契約の記述を修正しました)

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