ポンコツが全てじゃないんだよという弁明
📷:梅雨の季節の夕方、東京駅
私はポンコツである。
正真正銘のポンコツである。
三日坊主で、趣味らしい趣味はない。
幼い頃ピアノを何年も習っていたけど、楽譜は読めない。
毎日一つ忘れ物をする。
ペットボトルのゴミ出しに成功した事なし。
スマホをどこに置いたかすぐ忘れる。
地図が読めずぐるぐるしている。
炊いたお米を丸一日放置。
ポンコツなんて可愛い言い方だ。
辛辣な言い方をすれば「まぬけ」とか「ぐず」なんだと思う。
ポンコツなだけならまだ許せるかもしれないが、私の悪いところはポンコツなくせに頭が悪いわけではないと言うところだ。(自分で言っちゃうの)
本当に、それなりに、色々と、なんとな〜く、そつな〜く、なんでもこなしてきた人生だった。
ポンコツなのに。
それなりに周りから頼ってもらうことも多かったし、頼られた時に誰かを助けられるくらいには要領があった。
ポンコツなのに。
そんな私の性分とポンコツさは共存するのが難しいらしく、スイッチのオンオフがあるらしい。
人によってはオンとオフどちらかしか見たことがなく、その面の印象しか持ってもらえないこともある。
別にポンコツさを隠そうとしているわけではないけれど。
別に賢く見られたいわけでもないけど。
いや、どちらかと言うと賢く見られる方が嬉しいのか。
とにかく、そういうわけで私は人からの見られ方というものが、二極化している。
私がリーダー的な役割を担っているのを見たことがある人は、ちょっと賢いやつと思っているかもしれないが、近くで過ごす人にはさまざまな失態を見られ、ポンコツと思われているのだ。
私が普段見ているあの人も、実はいろんな顔を持っているのかもしれない。
職場ではクールにしていても、実は友達の前でおちゃらけるとか。
ニコニコ笑顔が素敵なコンビニの店員さんも、家族の前ではぶっきらぼうとか。
朝の満員電車ではちょっとピリついているあの人も、娘にはデレデレ鼻の下を伸ばすかもしれない。
人間、その人がどんな人なのか全て知るのは難しい。
知り合って、少しずつお互いを知っていって、長い時間をかけて初めて見る顔だってある。
逆に、知り合ったばかりで自分の素をさらけ出し合える人もいるが、それはかなり稀な存在だ。
たくさんの人と出会い、たくさんの付き合い方をしていく。
大事なことは、自分が見た部分をその人の全てだと思い込まないことだ。
私たち人間は、自分が見たものだけを信じたくなる動物なんだと思う。
多くを想像するには、その分多くの体力を消耗してしまうから。
この人は本当はどんな人なんだろう、と自分が見たことのない部分を想像するには体力も時間も足りない。
なので、「この人はこんな一面も持っていたんだ」と思う出来事があっても、幻滅したりせず、自分が見ていたのはこの人のほんの一部にしか過ぎなかったのだ、と思うことが賢い人との付き合い方だ。
かくいう私も、自分が見ているその人の一部分を全てだと思い込み、そして期待してしまうことがある。
この人は、以前私にこんなことをしてくれたから、またこんなことをしてくれるかも!
と期待してしまっても、実際にその人はそれをそつなくこなす人ではなく、すごく無理をしてやってのけていたのかもしれない。
本当はやりたくないけど、仕方ないから、としてくれたことなのかもしれない。
人には、いろんな顔がある。
それに、時と場合によってその人の言動はコロコロと変わるものなのだと思う。
私だってそうだ。
疲れている時、余裕がなくなってイライラと人にものを言ってしまうことがある。
だけど、その部分だけを見て、「あの子はイライラしやすい人なんだ」と決めつけられてしまうのは、少し悲しいと思ってしまう。
それは私の全てではないのに。
私が見ているあの人の顔は、あくまで一部分だ。
本人さえ知らない顔だって存在するはずだ。
私もそうなのだから。
知った気になるのはやめよう。
期待しすぎることはやめよう。
決めつけることはやめよう。
だけど、あの人が見せてくれたその一部分が、あなたにとって良い顔であったのなら、それは十分その人を好きになる理由になりうると思う。
その人の他の顔を知って、もっと好きになれたらミラクルラッキー。
思ってたんと違うと思っても、「ま、人生そゆこともある」でスルー。
賢く生きよう。
んで、私のポンコツさも受け入れてねっ?
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