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位置エネルギーは"ある"のか?

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 ふとネット上で話題になっていたので考え始めたが、よくよく考えてみると、”ある”というのは必ずしも絶対的なものではなく、なかなかおもしろい話題だと感じるようになった。とくに難しい哲学の話をするわけではないが、自分なりに、”ある”とはどういうことなのか、そして結局、位置エネルギーは”ある”のか、考えてみた。(注)が多くあるが、こちらはやや専門的なことが多く、本筋を理解する上では飛ばして読んでいただいても全く問題ない。

※ここでは“ある”について、物質的なものと概念は分けて考えてない。そもそも現代の物理の解釈からすると、実はその境界線はかなり曖昧だと思う。

"ある"とはどういうことか?

 そもそも”ある”とはなんだろうか? 目の前にコップがおいてあるときに、そのコップは本当に”ある”と言えるだろうか? それは手で触ってその存在を確認できるからだろうか? 目で見て一つの塊としてその存在を確認できるからだろうか? 本当だろうか? 
では逆に、もし一切、どのような知覚をもってしても、直接的にも間接的にも確認できず、あるいは推論する手がかりすらなかったらそれは存在するだろうか? 私の答えはもちろんノーである(注1)。

 たとえばもしこの世界にもう一つの世界が重なって存在していて、それらを一方通行に知覚してこれらの”存在”を知っている神様がいるとしても、私達にとってはもう一つの世界は当然ないのと同じである。なぜならそのような別世界はファンタジーのように無限のパターンを想像できるし、一切知覚、推論できないものが存在することを証明しようとしても、証明もできなければ、その他のファンタジーと区別もできないからである(注2)。そう考えると、やはり”ある”というのは、何らかの方法で知覚する、ということが重要そうである。

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 たしかに”ある”という概念は、もっとも原始的な解釈としては結局、手で触ったり、目で見えることをその基礎にせざるを得ない。そしてそういった認識を土台に、人々は世界を認識し、日々ものを動かしたり作ったり、食べたりできるし、生きていくことができる。身も蓋もないが結局、”ある”という理解が、どれほど自分たちにとってインパクトがあるか、都合がいいか、だけがその価値や確からしさを規定しているにすぎないし、それ以上のことは言えないような気がする。
 コップが存在するということを信じて疑わないのは、普通の感覚で言えば言うまでもないが、厳密に言うと、そう考えることで私達の生活のすべてが成立し、そこに価値があるというだけに過ぎない。逆に言えば私達の感覚はその程度のものであり、絶対的な”ある”という概念はないと、あくまで謙虚な態度を取るべきではないか(注3、4)。

 さきほど原始的な解釈、といったが、より自然に”ある”を拡張すると、
「ある=知覚でき、そう考えることに価値がある」
から、
「ある=認識でき、そう考えることに価値がある」
になる。つまり、生体のセンサー=五感を使って感じ取ることを知覚とするならば、認識とは、様々な事象とその背後にある論理体系や推論によって感じ取ることも含む。

 あまり卑近な例とは言えないが、例えばダークマターと呼ばれるものがある。銀河の運動を見たところ、どうやら私達の目に見えていない質量が存在しないと、その運動の様子を既存の物理で説明できないことがわかっている。
 これまでの様々な観測から、どうやら既存の物理が間違っているというよりは、望遠鏡などでは見えない、あるいは未確認の何らかの物質がある、という見方がもっともらしい。つまり、ダークマターは”知覚”できないが”認識”でき、宇宙を理解する上で、それが存在すると考えることが大きな価値をもち、あるという理解が一般的になりつつある

位置エネルギーは"ある”

 こうした立場に立ったときに、私は位置エネルギー(ここでは重力ポテンシャルのこと)はある、と考える。まず、エネルギーという概念は、厳密ではないにせよ殆どの人が認識するところだろう。見ることはできないが、ガソリンが燃えたり、その熱で車が走ったりすることから、「熱や運動を生み出すなにか」=「エネルギー」の存在を感じ取れる。このエネルギーというものは、かならず形を変えて存在しており、消えることはなく、「エネルギーの保存則」として高校で習うはずだ。

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 ガソリンが燃えたり、核反応で熱がでるのは、実はこれらは(静電気力による)位置エネルギーが形を変えただけなのである。もっというと、位置エネルギーは、有名な特殊相対性理論の式、E=mc^2を考えると、質量の違いとして顕に見ることができる。例えば炭素と酸素の質量は、C + O2よりも、CO2のほうがごく僅かに軽い。これは、電気的な位置エネルギーが異なるからである。
同じように、月が上空にある場合よりも、月が地球の上にそっと置かれた状態のほうが、地球と月の合計の質量は減少する。つまり重力による位置エネルギーは、重みとして実感できる、ある種の実体として、知覚すらできる

 さらに専門的な例を上げると、一般相対性理論によると、時間の流れが、地上と地球を周回する人工衛星では異なることがわかっている(注5)。この時間のズレが、重力の強さではなく、面白いことに位置エネルギーで表され(注6)、実は自然を理解するには重力の強さそのものよりも、その位置エネルギーが重要そうだ。

 以上のように、位置エネルギーを考えることによって圧倒的に見通しが良くなり、また、重さとして知覚もできるので、位置エネルギーが”ある”と考えるのはコップがある、というのと同程度に主張できるのではないだろうか

注1)推論のみできる場合、すこしややこしい。一切見えないし観測もできないようなものでも、それがあると仮定することによって理論体系に大きなメリットがあると気がついた場合、ある意味でその存在を認識したと言えなくもない。しかしこのような場合はやはり”ある”とまで言うのには慎重になったほうがいい。玄人向けだが、電磁気学と呼ばれる分野のベクトルポテンシャルや超ひも理論におけるひも、余剰次元がその例ではないだろうか。ただ、ベクトルポテンシャルは、今となっては存在が確認されているが。

注2)とはいえ、私達が認識できる世界の境界を広げようとすること自体は大事である。

注3)そう考えるとこの世界は、たまたま原子が集まってできた人間たちによる幻のようなものなんだろうが、とくにそれ以上、身になる話はできない。それに幻のようなものだからといって、なにか困るわけではない。幻で結構!

注4)そういう意味では、なにかが存在するかしないかは、信じ方の違いでしかない。科学的な考察や実験によってなんらかの存在を信じることもできるし、宗教的に神様の存在を信じることもできる。私はもちろん、基本的には科学的な信じ方を支持するが、あくまで絶対的なものではなく、ただ(圧倒的に)説得力があるだけである。

注5)この時間のズレは実際に観測されており、GPSは一般相対性理論の理解があって初めて機能する!これについての記事は乞うご期待。

注6)もう一度読み返してほしい。物理を学んだ人でも、時間のズレは重力の強さで決まると勘違いしている方がいるようだが、そうではない。時間のズレはあくまで重力による位置エネルギーで決まる。

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