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第8話 武士の格

武士、侍と一口に言っても、階層的な格に分かれており、その上下には雲泥の差があります。


一万石以上


禄高一万石以上は大名です。

一万石以上の者は、戦陣において、一軍を率いることが出来ます。

前近代の軍制において、独立した作戦行動を行える単位を「備{そなえ}」と言いました。近代の軍制における師団に当たります。

ひと備は230人ほどですが、侍身分ではなく荷物持ちなどを務める中間{ちゅうげん}・小者も含みます。

徳川幕藩体制においては、一万石以上の大名は、征夷大将軍たる徳川将軍家の軍勢催促に応じなければなりませんでした。つまり、その軍事指揮下にありますが、独立した領主でもあります。親藩、譜代、外様などの格に分かれていました。

徳川家直参


一万石以下は将軍家や大名の臣下です。

徳川将軍家の場合、大きく分けると、旗本と御家人に分けられます。

旗本は、主君である上様に目通り出来る者たちです。
これを御目見得{おめみえ}と呼びました。禄高は御家人よりも高い者が多く、大身の者は知行地を持っています。
ですが、禄高が少なければ、蔵米取り(禄を米で受け取る)でした。

御家人は、上様(将軍)に目通り出来ない者たちで、これを御目見得以下と呼びました。禄高は旗本に比べれば低い者が多く、ほとんどは蔵米取りでした。

さらに、彼らに仕える家来(将軍から見れば又家来{またげらい})もいますが、用人でない限り、「武鑑」などの史料にはまず出て来ません。旗本・御家人の人名辞典にも出て来ません。

大名家中


大名家の場合、大雑把に分けると、一門、門閥、番頭・組頭、給人、徒士、足軽・若党に分けられます。

一門は、藩主の親族です。

門閥は、家老や中老など、藩政を預かる要職に就くことが出来る家柄を差します。一門を含む場合もあります。

番頭・組頭は、何々番組や槍組、鉄砲組などの家中を統率する役職です。

給人は、知行地を持つ家臣たちです。格によって、番頭や組頭の組に属します。禄高は数百石程度で、時代が下るとともに知行地は取り上げられて実質的には蔵米取りとなります。

徒士は、知行地の無い蔵米(切り米)取りで、戦時には馬には乗れず、徒歩で参加しなければなりませんでした。徒歩の大和言葉を「かち」と言いますが、これがその名の由来です。それでも、代官などの役職に就くと馬に乗ることが許されました。
徳川将軍家の御家人に当たります。ただし、御家人は御目見得以下ですが、徒士は大名家によっては御目見得が許されました。

足軽・若党は、侍身分と百姓身分がいました。

侍身分の足軽は、世襲の者もいましたが、多くは一代限りでした。あるいは、名目は一代限りで、実質は世襲の場合もありました。たいていは苗字が名乗れました。

百姓身分の場合は、年季奉公で、苗字が名乗れない場合が多かったようです。

足軽と若党の違いは、足軽は大名家が抱える戦闘員ですが、若党はそれぞれの家臣たちが抱えており、主人の身近に仕えて雑役に従う者です。とはいえ、非戦闘員というわけではなく、戦場にあっては主人とともに戦いました。

若党は大名から見れば家来に仕える家来で、「又家来{またげらい}」に当たります。よって、何かしらの事件に関わっていない限り、大名家の史料に苗字と名前が出てくることは稀でしょう。

以上が大まかな武士の格ですが、実際には武士の格はもっと幾重にも分かれていました。

伊予国吉田藩の伊達家における格の序列の例


伊予吉田の伊達家は三万石で、伊予宇和島十万石の伊達家の分家であり、大本家は、陸奥仙台六十万石の伊達家です。大名家ではありますが、宇和島の支藩という扱いでした。

ちなみに、「巧みたる民」こと、武左衛門一揆で有名なところです。

伊予吉田藩伊達家における格の序列は以下のとおりです。

【御目見得格】

一、    御一門
二、    御家老
三、    御家老末席
四、    中老
五、    御用人
六、    御物頭
七、    御小姓頭席
八、    御軍使
九、    御太刀格
十、    準太刀格
十一、  給人筆頭
十二、  御医師席
十三、  給人
十四、  給人末席
十五、  無足間筆頭
十六、  無足間
十七、  無足間末席
十八、  仲ノ間筆頭
十九、  仲ノ間
二十、  仲ノ間末席
二十一、     御徒士筆頭
二十二、     御徒士
二十三、     御徒士末席
二十四、     御料理人席
二十五、     御坊主席
二十六、     仮名御免
二十七、     仮名御免末席
二十八、     平御坊主
二十九、     無仮名坊主

【御目見得以下】
一、 御足軽
二、 御猟師
三、 御小人
四、 御番人
五、 牢番人
六、 太鼓番人
七、 諸職人
八、 本人御中間・御中間・新抱御中間
               以上『藩史大事典第六巻中国四国編』より

「御」の字が付くのは、役職への敬意ではなくて、主君への敬意です。主君の足軽なので、御足軽という具合です。ちなみに百姓も「御」が付いて御百姓です。

さて、二から八までは役職名ですが、おそらくこれに就ける家柄は決まっていたので、役職名が格の名となったのでしょう。

郡奉行は、九の「御太刀格」と十の「準太刀格」から選ばれたそうです。

「給人」は知行取りのことですが、この名称は当初の名残で、実質は切り米取りでした。

「無足」とは知行地が無いという意味なので、「無足間」より下は、当初から切り米取りなのでしょう。

「無足間」「仲ノ間」は、控えの間のことです。勤番で出仕した際、決められた控えの間に端座し、番を務めました。

「御料理人席」は、殿様や殿様の客人のための料理を作る係です。

武士身分の料理人は他家にもいたようで、因幡鳥取藩池田家の台所役人に大蔵彦八郎という人物がいましたが、この台所役人も家中の料理人のことと思われます。

彦八郎は宝永三(一七〇六)年六月に、妻の不倫相手、つまり間男を京都下立売通り堀川東にて討ち果たし、見事に寝取られ男という汚名返上しました。

この女敵討ちは、近松門左衛門作の浄瑠璃『堀川波鼓{堀川波のつづみ}』のモデルと言われています。

さて、吉田伊達家では、「仮名御免」以上でなければ苗字は名乗れません。「仮名」というのは、苗字のことです。「仮名御免」から苗字が名乗れます。

二十八「平御坊主」と二十九「無仮名御坊主」とありますが、無仮名とある後者は、苗字は名乗れないのでしょう。無仮名という呼称で分けていることから、「平御坊主」は苗字付きなのでしょう。
この御坊主とは、応接や案内をする茶坊主のことです。坊主頭の僧形ですが、僧侶ではありません。修行もしていません。妻子もいます。

次に御目見得以下についてですが、彼らは苗字が名乗れません。

「足軽」も同様です。

二本差しは「足軽」までのようです。

「御小人」とは小者のことです。
武左衛門一揆関係の史料である『庫外禁止録』によると、御小人の栄蔵という者は、一本差しでした。

また、宇和島藩の中間も一本差しなので、吉田藩の中間もそうだったのでしょう。

七「諸職人」は、大工、鍛冶、鋳物などの手工業者のことです。
東国では戦国時代、各大名は手工業者や商人を家臣団の末端に加えて、自らの需要を満たしていましたので、その名残でしょう。畿内の大名には見られない施策です。
これは、東国では職人の確保が難しかったためと考えられています。職人の多い畿内から彼らを招いた例もありました。

以上が伊予吉田藩伊達家における家中の序列の例です。

ちなみに、元禄三(一六九〇)年に記された『土芥寇讎記』という幕府の史料には伊予吉田藩について、以下のように述べています。

身上ニ不応高知ノ輩、然モ無学無能ニ、人柄不宜輩許ヲ勝リ出し遣ス故ニ、能キ人 ナシ
【書き下し】
身上に応ぜず高知(知行地の禄高が高い)の輩、しかも無学・無能に、人柄宜しか らぬ輩ばかりを選り出し遣わすゆえに、良き人無し。

本家の宇和島藩では、五代目藩主伊達村侯{むらとき}の治世の下で藩政の改革に成功しました。

吉田藩でもそれに倣い、倹約令や紙の専売制を推し進めるものの、本家の劣化版のような体たらくでした。

そして、寛政五(1793)年二月八日、武左衛門一揆が起こりました。このとき、百姓衆の一部は、本家宇和島への領主替えを求めたのも、「能キ人ナシ」という家中を嫌ってのことなのでしょう。

一揆の起こる前から強訴の風聞があったのですが、その際、実勢を探り百姓衆を宥めて回った郡奉行所の役人に鈴木作之進という人物がいました。

その先祖作兵衛は、陸奥国出身で、初代宇和島藩主伊達秀宗の宇和島入部の際に、伊達家臣鈴村氏に従い、さらに吉田藩の分家に伴って吉田へ移ったとのこと。

よって、当初は鈴村氏の下僕(若党など)で、伊達家から見れば又家来の立場だったのかも知れません。吉田分家で伊達家の家来となったのでしょう。

初代作兵衛から三代目まで番人を勤めていました。御目見得以下の「御番人」のことです。四代目の作之進も当初は御番人でした。

ところが、代官下代という代官配下の民生をつかさどる役目に就くと頭角を現し、やがて郡奉行所中見役となり、格も上がり禄高も増し、最後は御徒士末席まで登りました。

六階級昇進の大出世です。(以上『武左衛門一揆考』白方勝)

以上のように、宇和島や吉田の家中であれば、その先祖の出自は陸奥国の可能性があります。

陸奥仙台伊達家の家中に同じ苗字があるかを調べ、それと比較することでさらに古い時代まで遡れる可能性があります。

ただし、前掲『土芥寇讎記』には、「渡り侍、新参者を召抱え」とあり、また「不知筋目浪人(筋目知らぬ浪人)」も召し抱えたともあるので、譜代の臣ではなくて新参者の可能性もあります。

江戸時代の格から戦国時代以前の格を推測する


侍や武士などと一口に言っても、その格は千差万別です。それなので、その出自は格ごとに異なります。

大名やその一門、あるいは門閥、番頭、組頭などであったなら、さらに先祖を遡れば室町時代の守護大名や国人領主、その前は鎌倉時代の守護地頭、もっと前は源平藤橘につながる武士団の棟梁などの可能性があります。

給人クラスであれば戦国時代の地侍や土豪にその出自があった可能性があります。彼らは在地にあって耕地を有する地主であり、下人・所従(奴隷と農僕)などを召し使って田畑の経営をしていました。その田畑は名田であり、彼らの実態は、有力農民である名主{みょうしゅ}と同様であったと考えられます。

徳川将軍家の御家人や各大名家の徒士であれば、戦国時代の足軽にさかのぼる可能性があります。当時、ちゃんとした生業がある者は武家奉公などはしなかったようで、どうやら彼らの素性はならず者だったようです。これは特に、若党や中間に言えることです。

もちろん、戦国時代は下克上の世であり、没落や仕官などもあるので一概には言えません。ただ、系図がさかのぼれないのなら、こうした推測をしてみるのもよいでしょう。

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