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【読書雑記】とにかく本のお話をさせてください!!

 読書好きの友達が周りにおらず、物書き仲間さんともイベントでしかお会いできない状態にあるいま、わたしが「本のお話」をすることができるのは、「note」だけです

 あまりにも寂しいので、配信をしてみようか、読書会などに参加させていただこうか、などと考えたりしているくらいです。

 これから書いていくのは「お話」なので、地図のない気ままな航海が続いていくことになるかと思います。どこへたどり着くことになるのか、わたしにも分かりません……!

 わたしは、文学(作品)に関する批評・論文などを読んだ経験がそれほどないので、作家(とその作品)に対する深い考察はできないのですが、そのことについては、あまり頓着してきませんでした。

 しかしふと、本棚に並べてあった(のに未読だった)中村真一郎氏の『芥川龍之介の世界』を読もうという気分になり、少しずつ根気強く精読しています。

 わたしが、こうした批評・論文を進んで読んでこなかった理由は、単に、おそらく自分には理解が追いつかないだろうと思うからです。

 案の定、難しい箇所が多くて読み進めることが大変なのですが、それでも(それ故に?)おもしろいです。

 丁度、芥川龍之介の『路上』を読み返しているところでしたので、次のような指摘などは、ものすごく興味深く思いました。

 芥川の未完成の長篇『路上』が、『大導寺信輔の半生』(これもまた未完だが)に数年先だって構想されたというのは、芥川の人生の奇怪な無企投性を示してはいないか。後者は青春の計算の結果を表現するはずのものであり、前者はその計算が終り、真に人生のなかに彼自身の人生を築きはじめた時に書かるべき市民小説ではなかったのか。

中村真一郎『芥川龍之介の世界』岩波現代文庫、2015年、12頁。傍点削除。

 中村真一郎は「青春という期間」を「自我と社会との苦しい和解の試みの時期」だと指摘し、「青春を抜け出す」ことを「自己の一生の見取図を人生の現場にあてはめて最終的に計算し直す操作が終」わることと見ています *1。

 それぞれの作品が構想された時期を考慮すると、「真に人生のなかに彼自身の人生を築きはじめ」ることができない(「青春を抜け出す」ことのできない)状態に、芥川は陥っていたのではないかということを、上の引用では指摘しているのです(だと思います)。

 この『路上』という小説は「THE 青春小説」といえるような内容であり、また、学生を中心とした登場人物たちが、恋愛、芸術、人生などに関する哲学的な議論を闘わせたり思惟したりするシーンが多く見られる、まるで芥川の頭の中をのぞいているような気分になる作品です。

 一方で、『大導寺信輔の半生』は、潤色がありながらも、芥川の人生の回顧録といえるような作品です。後期芥川の作品に特徴的な、自分自身(の過去)への冷徹な視線というようなものが強く感じられます。傾向としては、遺稿である『或阿呆の一生』と同一線上にあるような気もしますが、切実な痛ましさは後者の方が圧倒的に猛烈です。

 このふたつの小説は、全然毛色が違いますし、わたしは、両作品を比較しながら読んだことがありませんでした。でも、芥川の人生の流れのなかで作品を見ていくと、このように接続できるのかと、目から鱗が落ちた気分です。そしてこの相互参照から浮き上がってくるものが、芥川が「なぜ」「あれほどまでに」「苦しんだのか」という疑問へのひとつの回答なのだと思います。

 ところで、『大導寺信輔の半生』には、わたしにとって、とても印象的なシーンがあります。

(…)信輔は本を買うためにカフエへも足を入れなかった。が、彼の小遣いは勿論常に不足だった。彼はそのために一週に三度、親戚の中学生に数学(!)を教えた。それでもまだ金の足りぬ時はやむをえず本を売りに行った。けれども売り価は新らしい本でも買い価の半ば以上になったことはなかった。

芥川竜之介「大導寺信輔の半生」『大導寺信輔の半生・手巾・湖南の扇 他十二篇』岩波文庫、1990年、230頁。ルビ削除。

 信輔にとって本は、大切なものであり常に欲するものです。しかし、新しい本を買うためには「やむをえず本を売」るしかない。欲することの代償として、大切なものを失うのです。

 そんな信輔は、ある雪の夜に、古本屋を見て回っていました。するとそこで、自分の売った本が並んでいるのを見つけてしまいます。

(…)それもただの『ツァラトストラ』ではなかった。二月ほど前に彼の売った手垢だらけの『ツァラトストラ』だった。彼は店先きに佇んだまま、この古い『ツァラトストラ』を所どころ読み返した。すると読み返せば読み返すほど、だんだん懐しさを感じだした。

同上、230頁。ルビ削除。

 そして信輔は決断します。

 信輔はたった七十銭にこの本を売ったことを思い出した。が、やっと売り値の二倍、――一円四十銭に価切った末、とうとうもう一度買うことにした。

同上、231頁。ルビ削除。

 このエピソードを読むたびに、あまりに痛ましい切なさを感じてしまいます。

 一冊の本を購入するためのお金を稼ぐことに、どれくらいの苦労を経験しているのかということを思い返すと、目の前にある本を大切に読まなければならないという気持ちになります。

 ずっと本棚のなかで眠っていた『芥川龍之介の世界』は、当時のわたしにとって、思い切った買い物だったに違いありません。それなのに、忙しさを理由に、ほとんどページを開かずにいました。

 いまは、しっかりと最後まで読みたいと、強く思っています。

 ここからは、上記のこととはまったく別の、本の「お話」を書いていこうと思います。

「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』角川文庫、2019年、11頁。ルビ削除。

 谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』といえば、ライトノベル読者にとどまらず広く膾炙している名作であり、上に引用したフレーズは「ラノベ史」に残る一文であり続けていると思います。

 この前(いまさらながら)角川文庫から『ハルヒ』シリーズが再文庫化されているのを目にし、その1巻である『憂鬱』を購入いたしました。

「そうそう、○○歳のときに読んだな~」と言ってしまうと、なんとなく年齢が推測される――と思ったのですが、よくよく考えてみれば、ずっと愛読され続けている作品なので、分かることはないかもしれませんね。

 ところで、このハルヒの「宣言」(自己紹介)のシーンこそが、主人公とハルヒの最初の出会いの場面となっています。そしてこのあと、ハルヒとはどのような少女なのかという描写が続きます。

 長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、淡桃色の唇を固く引き結んだ女。

同上、11頁。ルビ削除。

 この簡潔な文章のなかに、ハルヒの「姿」をくっきりと想像することができます。作者の描写力(主人公の観察力)に圧倒されてしまいます。

 ところで、登場人物の「姿」の描写といえば、谷崎潤一郎の『鮫人』における「登場人物のひとりである梧桐寛治の容貌を、いつ果てるともなく延々と数ページにわたって描写し」た部分などが思い浮かんだりします *2。また『富美子の足』であったり、『蘿洞先生』であったり――考えてみると、谷崎潤一郎は、登場人物の「姿」の描写に関して、執拗なまでのこだわりを持った作家ではないでしょうか。

 もちろん、登場人物だけではなく、ある「対象」に関する「あれこれ」を丁寧に描写していくのが、谷崎のすごいところ(魅力)だと、わたしは感じています。そして、その文章は美しくもあるのです。

 例えば『天鵞絨の夢』という小説では、ある塔のような建物のなかに幽閉された人物が夜に目にした外の情景の数々を、見事な筆致で描いています。

月は今しも、南屛山の山の上から雷峰塔の頂きを掠めて、静かに静かに、少しずつ西の方へと映りつゝあるのでした。その月の動いて居る大空の色は、やはり湖の水の如く清くしっとりと澄み渡って、底の知れない深みを湛えて居るように、或は又空自身が今夜の月に酔って居るように、恍惚となって下界を蔽うて居るのでした。

谷崎潤一郎「天鵞絨の夢」『潤一郎ラビリンスⅥ――異国綺談』中公文庫、2007年再版、284頁。

 この『天鵞絨の夢』という作品は、美しい文章と比喩の数々が、ひとつの魅力である一方で、物語の面では人を選ぶような内容であり、そして、千葉俊二氏が指摘しているように、「明らかに未成の作との印象」があります *3。作品が「未成」だからといって、オススメできないということではないのですが、読んでいて気持ちのいい物語とは言いづらいところです。

 また『ハッサン・カンの妖術』という作品では、『玄弉三蔵』という小説を書くための史料を集めに図書館に通っていた谷崎が、そこでミスラ氏という人物に出会い、仲を深めていくうちに、彼の妖術を以て、須弥山の世界を冒険(?)するというストーリーです。その幻の世界の描写も、すさまじく緻密です。良い意味で「くどい」のです。

予が目撃した須弥山の世界を、詳細に語ろうとすれば、何年かゝっても語り盡す事は出来ないだろう。其れは殆ど、宇宙と同量の紙数を要し、文字を要するに極まって居る。こゝでは単に、その内の最も興味ある、最も重な経験の二三を、簡単に記載するだけにして置こう。

谷崎潤一郎「ハッサン・カンの妖術」『潤一郎ラビリンスⅥ――異国綺談』中公文庫、2007年再版、168-169頁。

 果たして「簡単に記載するだけに」とどまっているのかどうか、是非、本を手に取っていただけたらと思います……!(布教)

 この文章は一気呵成に成っておらず、少しずつ書き継がれています。それゆえに、書きたいことは貯まっていく一方です。

 しかし、どこかで区切りをつけなければなりません。また「本のお話」を「書く」ことをこころに決めて、ここで擱筆させていただきます。

【注】
*1 中村真一郎『芥川龍之介の世界』岩波現代文庫、2015年、11-12頁。
*2 千葉俊二「解説 坩堝としての浅草」谷崎潤一郎(千葉俊二編)『潤一郎ラビリンスⅨ――浅草小説集』中公文庫、2013年再版、297頁。ルビ削除。
*3 千葉俊二「解説 彼方への憧れ」谷崎潤一郎(千葉俊二編)『潤一郎ラビリンスⅥ――異国綺談』中公文庫、2007年再版、318頁。

【参考文献】
・芥川竜之介『大導寺信輔の半生・手巾・湖南の扇 他十二篇』岩波文庫、1990年。
・谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』角川文庫、2019年。
・谷崎潤一郎(千葉俊二編)『潤一郎ラビリンスⅥ――異国綺談』中公文庫、2007年再版。
・谷崎潤一郎(千葉俊二編)『潤一郎ラビリンスⅨ――浅草小説集』中公文庫、2013年再版。
・中村真一郎『芥川龍之介の世界』岩波現代文庫、2015年。

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