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【定期記事】創作人生のなかで一番重い「問い」-二条城で経験したこと-

 東西線に乗り二条城前駅で降り地上に出ると、がくがくと震える寒さの中に強い風が吹いており、雨が斜めに走っていました。折り畳み傘を開いたものの、信号を渡りきったところで壊れてしまいます。それくらいの厳しい天気の中で、二条城の入り口までようやく到達し、券売機で入場券を購入しました。

 荘厳な門をくぐっていくと、平べったい建物があり、そこが有名な二の丸御殿だと知ります。小学生のときに一度訪れたことがあるはずなのですが、すっかり記憶から抜け落ちていたため、新鮮な気持ちであの鳥の囀りのする廊下を渡り、いろんな座敷を見て回りました。絢爛豪華で趣深い装飾や絵は息を呑むほどのものでした。

 それぞれの座敷(~の間)には日本語と英語の説明書きがあり、海外からの旅行客の方々が熱心にそれを読んでいました。京都駅に降り立ってから感じていたことなのですが、海外の方の姿をよく見かけるのです。観光地としての京都を感じられる光景でした。二条城ではとくに、様々な言語を耳にしました。

 順路に沿って二条城を散策している間も、勢いよく雨が降りはじめたと思ったら快晴になったり、晴れ渡るなかを雨が走っていたりと、目まぐるしく天気は移り変わり、虹が架かっているところを何度も見る事ができました。そして、天守台から眺める京都の街並みや、手入れの施された美麗な庭を見ているとき、こんなことをふと思いました。

 こうした景色ほど「不自然」なものはないのではないか。

 そう思った理由はこうです。「諸行無常」という言葉が示すように、この世にあるものは「常で無い」のです。しかし二条城は、遠く昔から存在し、世界遺産として、これからも存在し続けます。もちろん全く同じ形をとどめる(とどめていた)わけではないでしょう。しかし「無常」から逆らって、「常にある」状態になるわけです。

 言い換えるなら「抵抗」だと思いました。「無常」への抵抗です。わたしが二条城に対して見出したのは、「無常=自然」へ抵抗している姿でした。そしてわたしは、この二条城を「創作物」として見るようになりました。論理的に理屈を導出できるわけではないのですが、そのように捉えている自分を発見したのです。

 わたしは素人の物書きであり、いつかはプロになりたいと思っています。今回京都へ行ったのも、「文学フリマ」というイベントにサークル参加するのが目的でした。しかし図らずも、偶然赴いた二条城で、衝撃的な出会い(発見)をしてしまったのです。

 コンテストに受賞したり、たくさんの「PV」を獲得したり、フォロワーが増えたりすることより、言い換えるなら、眼に見えて分かる結果を追い求めるよりも、大事なものがあるのではないかと思ったのです。わたしは創作活動を、そうした分かりやすい「結果」の追求だけではなく、より広いコンテクストに位置づけるべきなのではないかと考えたのです。

 二条城はもともと、観光を目的として創られたものではなかったはずです。しかしいまは観光地として、多くの旅行客の方々の旅の道順になっています。そして、そのために「常にある」ことを求められています。つまり、多くの人にその存在を認められており、求められているという、至高の芸術(存在)のように思えたのです。

 なぜ、自分の作品は世に出されるのか。世に出されたあと、その作品が「ある」べき理由はなんなのか。

 二条城と自作を比することが愚かであることは承知の上で、そのような問いがわたしの心中に去来したのです。これは、いままでの創作人生のなかで一番重い「問い」です。本質的と言ってもいいでしょう。

 というようなことを、二条城に身を置きながら考えていました。いまは少し考え方も変わりつつあるのですが、このときの経験は、わたしの創作観を激しく揺さぶってくれました。行ってみてよかったと、強く思います。


 それでは、今回はここで擱筆いたします。次の定期記事は再来週の土曜日(02月10日)となります。

 寒さ厳しい日が続いておりますが、皆様、お体に気を付けてお過ごしください。

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