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【掌篇小説-歴史】「忘恩」

 野犬が尿をかけた跡の残る柳の根本に籠を置いてしまい、咄と舌打ちをしたかと思うと、今度はため息を吐いて、紺の水干と揉烏帽子を擦り付けるようにして幹に深くもたれかかり、男は物思いに耽った。

 四条大路の四辻では他に、女が牟子を脱いで平骨の扇を使っていた。初夏の日差しは柳の影を黒々とさせ、蝮の死骸を黙然とさせている。風が吹いて葉がこすれあう気色もない。川遊びをする童たちが水浴びをしているのが、どこか雅やかに響いてくる。釣りをしている閑人は、鬱蒼とした蓬の陰で、竿の先を見るのに余念がない。

 その昔、男は、足を挫いている女を助けた覚えがある。あれは羅生門から凪いだ青空が見渡せるほどに、俯くことを忘れるくらい身軽な日の事であった。

 河野の殿の邸の近くにある川辺の蓬原の中にあの女はいた。牟子は葦の群れに留められたまま水面にゆすがれていた。どうやら足を踏み外して川の方へと滑ったらしい。従者がいないところを見ると、もしかしたら誰かに助けを求めに行ったのかもしれない。近くに人の姿は見えず、牛車の轍が朗らかに走っているだけだった。

 女を背負い柳の下の石へ座らせてから、水干を濡らして牟子をひょいと取り上げると、女は嫣然と微笑んだ。そして、「この恩は忘れませぬ」とだけ言い残して去ってしまった。去ってしまった――というと間違いがある。「この恩は忘れませぬ」と言った後、女の姿はみるみる透明になり輪郭が絡まり合い、段々と小さくなっていった。すると、まるで仙人が霞を呑んだかのように忽然とそこに消えてしまったのだ。

 残されたのはただ、牛車の轍と男だけである。そよ風が柳の葉と蓬を揺らすと、蟋蟀が一匹、この男の足元に飛んできた。蟋蟀はそのままじっとそこに留まっていたが、男が気を取り直して歩きだしたころには、いつの間にかいなくなっていた。

 四条大路の四辻であの女の事を考えていた夜、男の夢枕にその女が現れた。あの時と同じく、女がこちらへと嫣然と微笑んだような気がしたが、男からは牟子が月明りにかすれて見えるだけで、ただそう感じられるに過ぎなかった。

 妖艶な美女か妖狐の類か、どちらか分からぬ者を見守っていると、どこからか木の葉が渦を巻いてこすれ合う音が聞こえてきて、稲妻のような鐘の音が身体を走り抜け、髪の一本一本が神経を持ったかのように一斉に痺れ合った。

 一陣の風が吹いたかと思うと、洞穴の中へと吸い込まれていくが如くに牟子は女の頭を瞬く間に離れて、本朝で類を見ない、髪の代わりに蛇をのたうたせた女が現れ、爛熟した熱を宿した目を涼しげに男へと向けた。月光のなかで日輪のごとく赤光を放つその目が、脂汗を流す男の両の眼をとらえたのである。

 女は口の端を妖艶に曲げると、言葉らしい言葉も残すことなく、あの時と同じように、輪郭を段々と薄くしていき、すっとその場から消えてしまった。

 翌朝――男の妻が目撃したのは、朝の緩やかな空気と濁りない静謐のなかで、総身の時が止まり果てた、石となった夫の姿であった。

*     *     *

 以上は、予が目下執筆中の長篇小説の素材のひとつ、ゴルゴーン姉妹のメドゥーサが平安朝に訪れた事を記した史料の一部である。

 この史料には五十二もの逸話が収録されているが、以上のものは、収録順でいえば十三話目のものである。無論、小説にするにあたり、大幅な潤色を加えている。

 附、この史料の仔細については、一切お答えできないことを、ここに記しておく。予の小説が発表されるまで、お待ちいただきたい。

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