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尼僧の恋8「自傷」

後輩との関係は、恋人としてではなく、付き合ってすらいないのに元カレと元カノという不思議なポジションに着地したようでした。
時々気まぐれに私がメールをすると、少し呆れたような文面のメールが届いて、そこに私は安住していました。

恋愛における峠を一つ超え、とにかく軌道にのりはじめた私の尼僧生活は、無事に正式な得度式も終えて、あとはひたすらこの道を進むだけになりました。
しかしたった二年で、その生活も暗雲が立ち込めるようになります。

すでに大学4年生で、卒業後は当然お寺での長い修行生活が待っていました。
もともと好きで志願した業界であったので、尼僧をやめるという選択肢は最初からありませんでしたが、師匠の命は絶対という師弟関係の都合上、その師弟関係がうまくいかなくなると恐ろしく苦しいものでした。

あさ4時起床が辛いとか、真冬の雑巾がけがきついとか、冬でも暖房のないところで生活するとか、「習うより慣れろ」でOJTのないままいきなり新しいことをさせられて失敗の連続であるとか、そういったことは出家の世界のスタンダードだったため、特に苦しいとは思いませんでした。

しかし本来絶対的信頼関係にあるべきだった師弟関係は、師匠の病気という新たな事実に直面する段になって、突如スーパーハードモードになりました。
生来の持病だったのか、師匠の特殊能力だったのか、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる師匠は、時として被害妄想や物盗られ妄想によって私を責めることが増えました。

師匠もまた二十代で出家し、長く男ばかりの業界で修行し孤軍奮闘してきた、尊敬してあまりある尼僧のエキスパートであったのですが、この神出鬼没の被害妄想は、ある日突如として弟子を寺から追い出したり、その反対に心に響くような母性愛でもって私を娘のように甘やかしたりしました。

私は混乱しました。

兄弟子たちには相談することもできず、むしろ兄弟子たちもその被害妄想に巻き込まれたりしていて、22歳の社会を知らない女は、ただその病気の矛先が自分に向かないよう願うだけの、無力でちっぽけな一個人になっていました。

外部との連絡は修行の妨げになるから極力とるなと言われていた上に、出家した手前、親には相談するべきでないと思っていました。
相談したところで、下界とはシステムや常識が違うため、まったく話にならず、すぐにでも帰ってこいといわれるのがオチだと思いました。

病気さえなければ師匠は、慈愛の深い素晴らしい人でした。
私が耐えて支えていけば、いつか治るかもしれないと、そう考えたりもしました。

しかし、一方的に突然豹変して攻撃してくる師匠の被害妄想に、私は確実に疲弊していきました。

同じ風景、同じメンバー、同じ毎日。それはこの先ずっと続く。でも、選んだ道を捨てたくはない。
いつ何が原因で追い出されるのかわからない、ハラハラするだけの毎日では、自分の未来など描きようもありません。
窃盗の罪を着せられたり、陰口を叩いている、男が会いにきているなどとありもしないことで一方的になじられることは、矛先のない怒りを自らの内に貯めることにもなりました。

高い土塀に囲まれた20平方メートルの枯山水の庭で、毎日答えもない「どうしたらいいのか」を一人で考え続けるうちに、私は自傷という新しい息抜きを発見しました。
己の存在が希薄になることを食い止めるように、肘の内側にはカッターでつける浅い切り傷がどんどん増えていきました。
血が流れることで、溜まりに溜まったやり場のない怒りが、外に流れていくようでした。
とにかくそうやって今を耐えるしかない。それが22歳の私の答えでした。

そうして、誰にも話せない自傷を、たった一人だけ打ち明けた相手は、あの後輩でした。

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