「あなたは祖国のために戦えますか」という言葉の欺瞞性ー武力だけが安全保障の道ではないし、そもそも何を守るのか
2024年1月19日、桜井よしこ氏がこうツイートした。「『あなたは祖国のために戦えますか』。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです。元空将の織田邦男教授は麗澤大学で安全保障を教えています。100分の授業を14回。学生たちは見事に変わりました。」
中の人は当然、講義を聴いていない。学生たちがどう変わったかも確認はできない。そのうえで、このツイートの欺瞞性についてのみ、論じたい。
まず「祖国」。これは非常にあいまいで百人いれば百様の「祖国」がイメージされるでしょう。故郷の風景、父母ら身近な人たち、ともに学習やスポーツに励む仲間、国内旅行で知った自然や文化財…。数えればきりがないですが、「祖国」をわざとあいまいにするのがこの手の常道です。
例えば、明治から敗戦までの「祖国」は、世界で唯一神がつくって神の子孫の天皇が治める「国家」のことでした。教育勅語や御真影など、さまざまな仕掛けをつくり、天皇を「国父」、皇后を「国母」などと称して、その国家あればこそ、民があるという「神話」を植え付けるのに時間を費やし、庶民も「そういうものか」と受け入れ「ありがたいこと」としてきました。そして天皇をはじめとする先祖に感謝し、そんな神の国を守るため命を投げ出すことまで強要しています。教育勅語に明快に書いてあります。
では、現在の祖国の核心は何かといえば「自主・独立」です。個人が公共の福祉に反しない限り、誰からも束縛されないことを憲法が保障しているように、日本の国のことは日本という国境で囲まれた地域に住む人々の手で決め、外国から束縛されないこと。その「自主・独立」を守ることこそが、「祖国を守る」ということではないでしょうか。
自衛隊法第3条も、自衛隊の任務として「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」とし、「平和と独立を守り」という点を最初に書いてあります。
誰も、裏金作りをして責任も問われず、国民の生活を十分に考えないような「政府」「議員」を守るために命を捨てようとは思いません。いまだに治外法権を米国に許す独立の意味を理解していないのかとさえ思える弱腰も、信頼に足りません。そんな政府や議会を自分たちで変えて、自分たちが理想とする方向に向かさせることのできる「独立」こそが守るべきものではないでしょうか。
次の欺瞞は「安全保障を教えてこなかった」から「NOと答える」です。安全保障という、これまたあいまいな言葉を使っています。「国家安全保障」であれば「国家の独立や国民の生命・財産などに対して何等かの脅威が及ばぬよう手段を講じることで安全な状態を保障すること」(ウイキペディア)ですが、その手段は、まさに多種多様であります。また、守るべきものは、ここでも「国家の独立」を先頭に出してあります。
もし攻め込まれたら協力しあって外敵を追い出す同盟関係による「安全保障」も、確かにその一つでしょう。「戦えますか」とあるところから、こうした武力に武力で対抗する、という意識に誘導していること、武力で侵略しようとしている国があると誘導していることが明らかです。確かにロシアのウクライナ侵攻など、現実の武力のぶつかり合いは、学生たちにそうした思いを持たせる背景にはなったでしょう。
しかし現実は、非常に複雑な世界の経済や宗教、歴史的なつながりがあり、単純に帝国主義の時代と並べることはできません。そして周辺諸国との経済的政治的なつながり、民間の交流、適切な支援、だめなことにははっきり意見できるパイプをつくることなど、「安全保障」に資するのは武力に限りません。
むしろ、「戦って勝つのは下策、戦わずして勝つのが上策」という孫氏の兵法の通り、武力によって傷つけあうのは最低のやり方なのです。戦えますか、と問われ、「NO」といえる学生が多いということは、決して悪いことではありません。武力以外の方法での「安全保障」の可能性を考えようとしていると言い換えても良いでしょう。逆に、学生らから自主独立の政治的な精神を奪い続けてきた結果こそが、国民を幻滅させる政治を招き、まもるべきものを喪失させた為政者の責任が大きいと考えます。学生たちも、まもるべきものの意識が希薄になろうというものです。
そしてもう一つ教えてこなかったのは、自国の発展のため、他の国の犠牲を省みず、謀略や戦闘を繰り返してきた「大日本帝国」の姿です。日本の周辺諸国の、特にアジアの国々は、日本が帝国主義時代を生き残るため、勝手に戦争をしかけた国々です。その歴史は、たとえ何年たとうが、各国と日本が向き合う時の原点であることを忘れてはいけないでしょう。
むしろ、この「原点」を教えていないからこそ、他国への蔑視や不満が発生し、いらぬいさかいを生じ、「いつまでも言ってくる相手が悪い」と、武力による先制攻撃にもつながりかねない緊張感を招いているのではないでしょうか。
太平洋戦争末期、特攻隊員が「愛する者のために」と言って出撃する話は、現代からみれば美談かもしれません。しかし、太平洋戦争当時は「天皇のため」死ななければならなかったのです。それが真の「祖国」だから。
表題写真の2冊の本は、いかなる思考でエリート学生も戦地に出向かされたか、若者たちが、いかなる言葉で戦地に送り出されたかを書いてあります。特に、現代に通じるレトリックは「学生を戦地へ送るには」で出てきますので、機会があればご一読ください。