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1945年の大日本帝国は、臣民すべて戦力化に心血を注いでいました

 表題写真「家庭軍事講座ー竹槍の訓練」は、特別な本に載った記事ではありません。情報局が国や軍の方針を分かりやすく写真中心に伝えてきた「写真週報」の1945(昭和20)年6月21日発行、第373号に掲載された記事です。

写真週報第373号。とはいっても、このころは旬間でしたが

 表紙は「儼たり本土要塞」とあり、次は本土での戦闘が不可避という雰囲気が浮かびます。要塞といっても、丸太の入り口が心もとないですが。この号の最後のページに「家庭軍事講座」が載っていましたが、不定期連載のこの講座、最初は小銃の扱い方、次に手榴弾について、その次ががくっと変わって竹槍になりました。

5月の写真週報に載った、竹槍の前の家庭軍事講座「手榴弾」の回

 正式な兵器の手榴弾から、およそ1カ月で、このような竹やりが実戦兵器の仲間入りとして「軍事講座」を占めるとは。

竹槍の作り方、構え、突撃の仕方が、らしく書いてあります
横と正面の竹槍をかまえる姿勢

 「本土の要塞化が着々と進捗しているこの際、竹槍訓練の重要なことは今更いうまでもない」としていますが、戦国時代ならいざ知らず、戦車や短機関銃で武装した兵士が相手なんですが。「今更いうまでもない」って、ようするに説明はできないからとにかく天皇の赤子である以上は、皇土を護るためにやれってことなんですよね。それでも、こんな写真載せられても不安しか出てこないのですが。

いくら何でもみつかるでしょうし、出た途端…

 沖縄の次は本土上陸と見抜いていた大日本帝国は、まずあらゆる組織を解体して「国民義勇隊」に編成します。職場や学校、居住地単位の人々をすべて一つの指揮系統にまとめたものです。基本的には軍の後方支援、陣地作りなどの協力、など、直接戦闘に出る部隊ではなかったのですが、1945(昭和20)年4月13日に閣議決定された「状況急迫せる場合に応ずる国民戦闘組織に関する件」で戦闘隊への移行がありうるとし、6月23日に「義勇兵役法」を公布して、どのようにすれば「兵」とできるかが決められます。指定の方法のほか、名札をつけるなどするだけで兵とされます。
 そんな状況下にあっては、政府広報としても戦闘に備えられるよう、指導する必要もあったということでしょう。
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 これとは別に、大本営陸軍部は「国民抗戦必携」という冊子を4月25日に作成し、各方面に配布したほか、全臣民に行き渡らせる能力はないので、増刷も許可しました。

国民抗戦必携。長野県に疎開した登戸研究所が7月20日に受領したもの

 そして、不足分をカバーするため、各新聞に掲載されることになります。絵を中心としてある原本をそのまま作成したものと、基本的に記事の形にして掲載したものがあります。長野県の信濃毎日新聞社でも、6月11日から14日まで、4回に分けて連載しています。

刺し違えればめっけもの。あくまで魂の戦いと

 原本のうち、あまりにもあまりな部分を紹介させていただきます。

竹槍で突け、後ろから鎌でお添え、睾丸をけろ…
火炎放射器に対しては濡れ筵を使う…

 生きて帰ることを前提としていないのはよくわかります。それでも、戦争を止めるという指示がない以上、戦争を続けるのが軍隊であり、やめろと言われても次はこうして勝つというのが軍隊の本質でしょう。やるかやめるかは政治の世界の話って感じですが、大日本帝国で戦争を止められるのは統帥権を持つ天皇だけでした。
 しかし、その天皇自身が開戦に踏み切った理由として、もし反対すれば「多年錬磨の精兵」が弟を天皇にして開戦しただろうと振り返っているぐらいで、既にそんなことのできる「精兵」が消耗してしまった結果、ようやくポツダム宣言受諾でまとめられたという状態。「兵は凶器」でもあるのです。

 いずれにしても、1945年は食糧自体がつきかけていて、実際、敗戦後の窮乏は激しいものとなっています。前線の兵自身が、早く敵が来てくれないと飢えで倒れるという弱音をはくくらいでした。
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 なお、国民義勇戦闘隊については、藤田昌雄著「日本本土決戦」潮書房光人社刊が詳しいですし、国民抗戦必携などにも触れていますので、ご覧ください。

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