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日中戦争の長期化による士気低下を受けて作られた「戦陣訓」の罪

 陸軍上層部が指示して作成し1941(昭和16)年1月8日、東条英機陸軍大臣が全軍に伝えた「戦陣訓」と言えば、「生きて虜囚の辱めを受けず」という部分が独り歩きしたことで知られています。
 弾丸も食糧も尽きた部隊が、降伏せずに相手に突撃して全滅する「玉砕」も、この教えから太平洋戦争では頻発しています。さらに、それが一般の住民にも浸透し、例えばサイパンの戦いでは、この教えに従って1,000人ともいわれる住民が次々と日本に一番近い断崖から岩場の海に身投げして自殺し、現地は「バンザイクリフ」と呼ばれています。

 ただ、戦陣訓の実際の狙いは、こうした自殺的戦闘の強要が主目的ではありませんでした。1937(昭和12)年7月に始まり、終結のあてもなく続く日中戦争で、一般兵士による上官への反抗や戦場離脱、中国の民衆への暴行・略奪など、士気が低下して統制が混乱してきた現地の部隊を、今一度引き締めるのが最大の目的でした。

岡谷市の帝国在郷軍人会に配布された「戦陣訓」の冊子

 このため、戦陣訓では見開きに「本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ共スベシ」と、その目的を明確にしています。内容は「序」「本訓 其の一」「本訓 其の二」「本訓 其の三(第一・戦陣の戒め、第二・戦陣の嗜)」「結」と構成されています。「序」では、「大命に基き、皇軍の神髄を発揮し(略)御稜威の尊厳を感銘せしむる處なり」とし、天皇の命令で天皇の軍隊としての働きを示し、天皇の威光を敵方にも与え感銘させるのが使命であると、天皇の名による軍事行動であることをまず強調しています。

天皇の軍隊であり、天皇の威光を広めるのが目的と強調。
戦陣において、軍人精神を忘れるなとしつこく繰り返します。

 そして、「本訓 其の一」も、「第一 皇国」「第二 皇軍」と、日本軍の性質をあらためて説き、特に「皇軍」では「服するは撃たず従うは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言い難し」とし、暗に捕虜や住民への過酷な仕打ちを戒めています。
 そして「第三 軍紀」では「大元帥陛下に対し奉る絶対随順」と、天皇を頂点とした上下関係への絶対服従を強調します。そして団結、協同に続く「第六 攻撃精神」「第七 必勝の信念」でようやく戦闘の話になりますが、これも平素の訓練が大切と説いています。この本訓其の一は、皇国史観に基づく兵士のあるべき姿を説いて、真っ先に上官への反抗や民衆への暴力を戒めていると読み取れます。なお、戦陣訓の作成にあたっては、長野県の馬籠(現・岐阜県中津川市)出身の島崎藤村も検討・加筆に加わっています。

「本訓 其の一」あらためて、天皇を支え助けるのが大切とします。
戦陣訓の本訓其の一をまとめたもの。一番に訴えたいことが明瞭。

 「本訓 其の二」は、10項目に分かれています。順に「敬神」「孝道」「敬礼挙措」「戦友道」「率先躬行」「責任」「死生観」「名を惜しむ」「質実剛健」「清廉潔白」となっていて、軍人として守る個人の道を説いています。神を敬う、挙手が上下のけじめである、身をもって実行する、といった内容に続いていきますが、その後の「死生観」と「名を惜しむ」が、独り歩きしていくことになります。

「従容として悠久の大義に生くる」「生きて虜囚の辱めを受けず」が玉砕につながっていきます。

 ただ、この部分については、1882(明治15)年制定の「軍人勅諭」が大本になっています。

長野県の在郷軍人会下伊那郡連合会分会が1931年に作成したもの
「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」の末尾

 軍人勅諭のうち「軍人ハ忠節ヲ尽クスヲ本分トスベシ」の部分に「死ハ鴻毛ヨリモ軽シト覚悟セヨ 其操ヲ破リテ不覚ヲ取リ汚名ヲ受ルナカレ」という、戦陣訓の死生観、名を惜しむのもとになったような表現が見られます。
 実際、戦陣訓は軍人勅諭とは別に、戦場の環境に応じて兵士が準拠することとしてまとめられたので、陸軍の最も基本である軍人勅諭を戦場において実践するとはどういうことかが、この戦陣訓に反映されているとみて良いでしょう。「結」で「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し」とあるのがその証拠です。
 こうした人命を軽視した思想が、犠牲を恐れぬ攻撃精神として発揮されたとしても、やがては戦闘力の亡くなった兵士が自殺的攻撃に出ることを賛美し、住民にも犠牲を強い、同時に兵士を戦場で殺伐とさせた側面はなかったでしょうか。

 「本訓 其の三」は、戦陣の戒めと戦陣の嗜みの二つに大別して、よりわかりやすく具体的な行動、考えを「武士道精神」に基づいて示しているとされます。特に戦場の戒め9項目中、最初に「敵及び住民を軽侮するを止めよ」とあるのは、捕虜や住民への当時の現地での対応を示して余りあります。

最初に住民や敵を軽んじ侮辱するのを戒め

 6では「徴発、押収、物資の燼滅等は総て規定に従い、必ず指揮官の命によるべし」、7は「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」、そして8は「酒色に心奪われ、又は欲情に駆られて本心を失い、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず」となっています。いずれも、略奪や住民への暴行、女性への性暴力といったことをしてはいけないと諭すものです。
 日中戦争が始まって3年半、そこに至ってこのような「戦陣訓」が出るのは、中国現地における軍紀の乱れの裏返しのようなものでしょう。そんな状況では日本への憎しみが募る一方という危機感もあったかもしれません。
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 戦陣訓は、戦場で守る具体的な道徳と、それに沿った行動を目指したものでしたが、なぜわざわざ死を称揚する内容を包含したのか。そこだけが兵士の生死に特に直接かかる分だけ、「生きて虜囚の辱めを受けず」とだけが独り歩きする結果となったのではないでしょうか。アッツ島に始まり、沖縄に至るまで、太平洋戦域からビルマ方面まで、この戦陣訓の呪いで玉砕せざるを得なかった、すべての将兵の皆さまのご冥福をあらためてお祈り申し上げます。

 

 

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