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戦時下、金属供出させられた善光寺の六地蔵と残された濡れ仏ーその存在が戦争遺跡に

 長野駅から善光寺まで、門前の直線の通りを歩いていくと巨大な仁王門、そして賑やかな仲見世を通って山門をくぐって境内に入ると、右手奥で参拝者を出迎えるのが表題写真の六地蔵と、表題写真の一番奥、下写真の延命地蔵菩薩像座像、通称「濡れ仏」です。説明によると、1722年に完成したものということで、巡礼者の供養のため、法誉円信が広く施主を募って造立したものだそうです。

塗れ仏

 六地蔵は、もともと、1759年に江戸は浅草の信者が願主となって建立して以来、子育て地蔵と呼ばれて親しまれていました。向かって一番右側の地蔵尊が片足を蓮華座から出しているのは、一刻も早く世の中の救済をしようという思いがこもっているといいます。

片足が今にも動きそうなみごとなつくり

 ところが、当初建立された六地蔵は、国家総動員法に基づく金属類回収令(1941(昭和16)年8月公布)により、供出させられました。1944(昭和19)年2月ごろのことです。1943(昭和18)年12月に政府が個々の仏像(おそらく、野外のもの)のうち、どれを残すかを慎重に検討。長野県分は、すでに180件ほど供出していましたが、残っていた約200件のうち、善光寺の濡れ仏を除いて全部供出することが「閣議」で決定されました。この中には、今ではおさるの温泉で有名な山ノ内町湯田中にできたばかりの百尺観音も含まれていました。

 戦時下、信濃毎日新聞社の写真部記者だった川上今朝太郎さん(故人)は、戦争で変貌する長野市の様子を文字通り命がけで撮影され、戦後、写真集「昭和で最も暗かった9年間」を発表されました。

命がけの貴重な写真がつまっています

 この写真集に、見開きで台座だけになった六地蔵とその周囲の防空壕の写真がありました。木も少ないので、奥の濡れ仏の台座もよく分かります。

川上今朝太郎写真集より

 六地蔵の台座はそのまま残り、手前には空襲時に避難するためでしょうか、子どもの背丈ほどの溝が掘られています。
 同じような角度から、現在の六地蔵の姿を撮影しました。奥にある、戦時中に供出を逃れた「濡れ仏」は木に隠れていますが、台座が見えます。さらに奥の建物が善光寺本堂です。

石がならんでいるあたりの奥に空襲時の退避壕があったのでしょう。

 当時、供出の境目は300年以上昔に作られたかどうか、という基準があったようですが、それだと濡れ仏は引っかかるので、なぜ残されたかは分かりません。

修学旅行生らでにぎわう善光寺と濡れ仏、六地蔵

 境内では、修学旅行生や各地からの団体客、外国人観光客、近所の人など、大勢の人が訪れていました。ときおり、六地蔵に歩み寄って手を合わせていかれる姿も目にしました。

境内で存在感を放つ六地蔵

 もちろん、今、善光寺を訪れる人たちが、2024年からみて80年前にこの六地蔵が供出され、その後再建されたことなど、知る由もありません。文化や伝統、人々の気持ちのよりどころや思い入れなど、お構いなしに飲み込んでいくのが戦争であること、つくづく感じます。

 そんな運命を経て再建され、あるいは再建されなかった事実を伝えているあちこちの像や寺院の鐘も、立派な戦争遺跡といえるのではないでしょうか。

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