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戦時下の「人=国力」的性教育から学べる、パートナーを大切に思うことの重み

子供にいつ性教育を行うか―という親や教育現場の悩みと関係なく、現在もまだ性教育自体を嫌悪する向きがあるようです。その根底に流れる意識を探りたいと、戦時下の公的な妊娠出産本をひもといてみました。

「子宝宝典」表紙

 こちらは、財団法人長野県社会事業協会編纂、長野県兵事厚生課(ここ、重要( ..)φメモメモ)が1943(昭和18)年8月25日に発行した「子宝宝典」。既に紙が不足してきた中で、331ページの大作をまとめたところに力の入れ具合がうかがえます。
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 序文に「国の発展するか否かは健全なる子供の量及び質によるのでありまして大和民族の悠久なる発展を期するためには立派な子供を沢山つくることであります」とあり、戦時下の「生めよ殖やせよ」の雰囲気をよく伝えています。子供=国力、なのです。さて、次にかかげますのは、本書の目次です。

 第1編「母の巻」の第1章「結婚」では、結婚は民族発展のためで「結婚したら優秀なる子供をもうけることに専念せばならないし、之は非常に大切な御奉公」として、結婚子育てはもはや個人の領域、家の領域すら超えています。そして遺伝の話を持ち出し、優秀な子孫を残す優生思想を説きます。

 そうした心構えに続く第2章が「妊娠」です。ところが、いきなり第1節「妊娠の為に起る体の変化」―。性行為を含む受胎行為の部分をすっとばしています。そもそも、月経周期の話とかも出てきません。母体の健康や安全とか考えず「わかってるんだろ」といわんばかりの編集です。そして一気に出産まで。「母の巻」はわずか30ページ。残りはひたすら、子育ての話で終わりです。まさに「子を産む機械」と見られていたのです。
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 当時、性知識はどうやって得ていたのでしょう。戦前の長野県のような田舎では、若い女子や男子ごとの集まりがあり、そこで猥談のように話されたのでしょうか。家庭内の行為をなんとなく見聞きして知ったのでしょうか。あるいは遊郭で遊んで、ということでしょうか。いずれにしても、性行為と妊娠の関係や性病のことなど、きちんと学ぶ機会はなかったでしょう。戦前の雑誌「主婦之友」をざっと見ても、やはり結婚までと子育てと、受胎関連を飛ばしてふれないようにしているのは変わりません。
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 一方、こちらは少し時代が昔のものですが、1933(大正12)年9月2日付信濃毎日新聞夕刊にあった本の広告です。

 「いかがわしき猥雑書と同一視せられざらんこと」とありますが、性の知識はこうした雰囲気で語るもの―というのが明らかです。すぐ近くにもこんな広告が。

 ようするに、性教育をしていなければ、こうした「猥雑書」や「猥談」「遊郭」からの知識しかないまま、結婚することになるのです。これらは、基本的に男目線の情報でしょう。女性のため、というものはなかなか見当たりません。
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 現在も戦前も、日本における性教育環境は意識しない限り、あまり変わらないようです。戦後、人口増加が社会問題となって産児制限や家族計画が語られるのですが、その調節は1948(昭和23)年に成立した優生保護法(現・母体保護法)による中絶が頼りの状況に(優生保護法そのものは戦時下の国民優生法の精神も引きずっており、ほめられはしません)。現代では当時に比べ数こそ少なくなりましたが、中絶に頼る産児調節は続いています。ピルもようやく解禁されましたが諸外国に比べて使いにくく、社会的な無関心のしわ寄せが、最終的に女性にかぶせられる状態は続いていると言っていいでしょう。
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 性教育を通して互いの体を知り、命をはぐくむことの大切さを知るからこそ、双方を大切にし、興味本位の行為から距離を置くことが可能になるのではないでしょうか。男性にとっては、そこから女性の体を気遣うこと、子供を含めた家庭は二人で育てていくこと、つまり、女性を対等のパートナーとみる意識が育つと思うのです。 
 男は性行為するだけ、妊娠するかどうかも考えず後は女性まかせ―といった身勝手な意識。女は男の言うとおりにしておればいいんだという、戦前の女性を男性の所有物とみなしていた時代の感覚が、今も残っているのでしょうか。これが性教育の、ひいてはよりよい男女関係を築く上での障害になっているように思えます。
 ただ、戦時下の「子宝宝典」が女性を子供の生産道具視していた感覚に、一人ひとりが違和感を感じてもらえるなら、それを乗り越える道は遠くないと思います。

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