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木曽町に残る赤黒迷彩の土蔵ーなぜ赤と黒か

 表題写真と下写真は以前、長野県木曽町に行って撮影してきた、戦時中に迷彩をほどこしたという土蔵です。写真の解像度が低いのは申し訳ないですが、いずれ撮り直しに行きたいと思って居ます。

赤と黒の迷彩が入った土蔵

 太平洋戦争も末期になり、日本への空襲の危機が叫ばれるようになると、土蔵の白壁が夜目に目立つとして、すすなどを塗って迷彩することが盛んに行なわれました。たいていは、白壁の上にすすで黒く塗ったものですが、木曽町の土蔵はなんと、の迷彩です。まず見たことがありませんし、迷彩効果からいっても(もちろん、白壁を塗るのもたいしたことではありませんが)、不思議です。

扉にもしっかり塗装

 とびらにも、丁寧に色が塗ってあります。基本的にこの状態で土蔵を物置に使っていますので、影になる部分が多く雨にも当たりにくいため、戦後半世紀以上を経ても、これだけの色が残ってくれたといえます。

土蔵正面の迷彩はほとんど消えかかっている

 残念ながら、土蔵正面は日がよく当たり風雨にもさらされる場所ですので、かなり色が落ちて白壁に戻ってきており、うっすらと赤色が残っている程度で、迷彩を塗ってあった面影をかすかにしのばせています。

 この土蔵の持ち主のNさんにお話しをうかがったところ、Nさんが国民小学校の4年生だった1945(昭和20)年の春ごろ、近所のペンキ屋さんに頼んで塗ってもらったとのことです。そのペンキ屋さん、「酒を飲まないと手が震える」との理由で、酒を飲みながら描いてくれたそうです(笑)。

 ちなみに、当時の福島国民学校では、初等科でも4年までは農家の手伝い、5、6年は軍事教練をしていたといいます。木曽町で短く切った木銃を始めての収蔵品として購入しましたが、これも、そうした時に上級生が使っていたのでしょう。一つなぞなのは、「福島尋常小学校」と彫ってあることです。尋常小学校が国民学校になるのは1941(昭和16)年4月のこと。日中戦争当時から教練のようなことをさせていたのかもしれません。

右は通常のサイズの木銃、左が福島国民学校で使っていた木銃

 ちなみに、この赤黒の迷彩土蔵のあるあたりには、黒い色だけで塗装した後が残っている白壁のお宅も何軒かみましたが、赤と黒は先にお見せしたものだけでした。
 しかし、黒はともかく、なぜ赤か。実は、木曽谷の集落をながめると、古いお宅の屋根の中にはトタンに赤のさび止め塗装をしているものが目立ちます。木曽谷は風が弱く雪も少ないので、屋根の勾配が緩く、古くは板葺きに置き石屋根で済ませていたのが、進歩してトタン張りになり、赤いさび止めで仕上げという流れでした。赤色はペンキではなく、トタン屋根用のさび止めがあったからと、ペンキ屋さんがせっかく作るならーと絵心を発揮してしまったのかもしれません。
           ◇
 戦争の証人は、モノだけでなく、こうした屋外に残っているものもあるのです。しかし、モノも屋外の風景も、しだいに形を失っていくものです。できる限り、記録して残していきたいと思って居ます。
 幸い、木曽谷は空襲被害を受けることなく、敗戦を迎えました。自分はとても好きな、味わいのある町です。よろしければお運びください。

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