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日露戦争の勝利で長野市では戦利品の展覧会に人波。そこを商売に結び付けた方のおかげで、展示品の様子が明らかに

 明治政府が国運を掛けたと言っても差し支えなかった日露戦争。兵の奮闘や1905(明治38)年5月27日から28日にかけての日本海海戦の勝利に加え、列強の牽制や協力、米国の講和に至る指示で戦闘を終結させることができました(ただ、戦場となった清国の荒廃や民衆の苦労があったことは忘れてはいけません)。
 ルーズベルト米国大統領の日露への講和会議招請状は1905年6月8日に出され、日本は10日、ロシアは12日に正式に受諾。会議は8月10日に始まり9月5日に調印となって講和が成立しました。これで大日本帝国は朝鮮と満州の制御権を得て列強の仲間入りをしますが、この権益がその後の日本の道をゆがめていく一歩にもなったのです。
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 さて、長野県でも日本海海戦の勝報が伝わった1905年5月30日ころから6月1日にかけ、各地で祝勝会やちょうちん行列が行われました。そして6月9日から22日まで、長野市の長野県会議事院で「戦利品展覧会」を開くことが決定されました。詳細は分かりませんが、長野県の企画とみられます。

 展示品については開会前日の信濃毎日新聞に主なものが掲載されていましたが、当時の新聞は写真がまだ印刷されていません。戦死者の顔は木版を使って印刷していたころです。しかし、およそ5万人が訪れた14日間の会期終了に合わせ、長野市の金華堂書店は実物を写生した「陳列記念戦利品図絵」を26日に発行しました。120年近く昔のものですが、特徴をよく捉えていますので、当時の雰囲気を感じていただければと紹介させていただきます。

記念陳列戦利品図絵 解説付きで5銭
一番目立つ、3インチ野戦速射砲

 展示した3インチ野戦速射砲は旅順で鹵獲された34門の一つで鹵獲野戦軍で使用したという。その後の戦闘でも多数鹵獲したが、無傷のものは前線で日本軍が使用中としている。機関部がこの砲には欠けているが、鹵獲前に破壊されたという。

57ミリ速射砲

 57ミリ速射砲は椅子山砲台で鹵獲したもの。見切れているが隣のマキシム式機関銃は旅順のクロパトキン砲台で鹵獲したという。全図で確認を。壊れている部分からすかしたように写生してあるのが見事です。

小銃や拳銃などの歩兵装備
サーベルも使っていました。将校や乗馬隊が使ったもので、拳銃も乗馬隊用
各種砲弾、薬きょう、手榴弾もある
軍曹品類
炊爨車と蹄鉄

 炊爨車はパンを焼くための物。蹄鉄は日本軍のものと比較して描かれている。こちらも旅順で鹵獲したもので、日本のものより大型であり、日本の馬の改良急務としている。

つるはし、スコップ、火箭

 つるはしは元々は両側同じ長さだったものが、野戦構築で短くなったもの。スコップには弾丸が1発命中していた。火箭は照明弾のように打ち上げ、300m四方ほどを照らし出したという。
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 参観人には、近隣小中学校の団体も多かったという。生々しい戦場の姿を、どこまでイメージできたでしょうか。こうした戦意発揚は、その後もたびたび繰り返されていくことになります。

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