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長野商業学校(現・長野県立長野商業高校)の高田の歩兵連隊における「営内宿泊」ー教練にとどまらず軍隊に触れる

 第一次世界大戦の終了で各国が軍縮の方向に動き始めると、日本でも脅威が薄らいだとして軍縮の機運が高まったこと、そして関東大震災の復興費用捻出も迫られたことから、軍縮を行いつつ、即席で育成できない将校の予備役編入(失業)を防ぐ双方の狙いから、中等学校や師範学校に現役の陸軍将校を配属して軍事の基礎を教える教練の実施が、1925(大正15)年1月10日、陸軍現役将校学校配属令の可決によって決定し、同年から始まりました。
 教練は校内での訓練にとどまらず、地域の学校の合同演習、仕上がりを見る査閲なども含んでいて、徴兵検査で甲種合格、くじにもあたり現役兵となって兵営に入るかいないかを問わず、広範な若者を対象に訓練が行われたのです。また、進学しない青年男子のための青年訓練所、青年学校でも教練が行われ、特に日中戦争の先が見えなくなってきていた1939(昭和14)年からは青年学校入りが必須となり、今でいうところの中高生世代の男子が軍事訓練を受けることとなりました。
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 そんな教練の一環として、実際に兵営に入って兵隊の生活の雰囲気を体験し、普段はできない実弾射撃も行う「営内宿泊」がありました。必ず行う必要があるわけではありませんが、満州事変勃発など軍事への世の中の関心が高まると、自然に営内宿泊の希望も増えたようです。
 1933(昭和8)年度の長野県の長野商業学校(現・長野商業高校)=長野市=では、新潟県の高田歩兵第58連隊で営内宿泊を実施しました。当時の卒業アルバムの写真で紹介します。なお、アルバムには写真に日時が入っていないため、何年生の時のものかは不明です。ただ、ある程度教練を重ねた最高学年が行ったとすれば、1923年のものでしょう。
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 営内宿泊の日課として、最新兵器や軍用防毒マスクの着用、そして実弾射撃といった「体験」をしています。

歩兵砲の説明を受ける長野商業学校の生徒たち
同じく、重機関銃の説明
防毒マスク、軽機関銃などの体験や説明。あまり緊張感はありません
対空射撃の行い方も学びました
教練銃とは違う、実物の三八式歩兵銃で実弾射撃

 また、こうした戦闘分野に加え、兵営の雰囲気を知るための、食事、食器返納、就寝、という生活も一部体験。現役兵なら先輩の分の仕事をこなしたり就寝前の制裁などがありましたが、営内宿泊は「お客さん」ですから、そういうことはなかったでしょう。

軍隊の一杯2合の麦ごはんを味わう生徒ら
食器洗いも大事な訓練
消灯ラッパで就寝。体験用の部屋とみられます

 受け入れる軍側も大変だったでしょうが、こうした体験を徴兵前の青年にさせることで軍隊に対する理解を高め、親しみも持たせるという狙いは重要ととらえていたでしょう。この学生らが家庭や学校で話題にすれば、なお、軍隊に対する世間も含めたハードルも下がろうというものです。
 国民皆兵を支えた学校での教練、さらにはイベント感もある営内宿泊。突然、兵営での現役を経験していなくとも臨時召集令状=赤紙が届くのは、こうした訓練を既に終え、軍に対する知識や基礎を持っているからこそでした。そして兵営で短期間(一か月程度)の訓練を行い、戦場へ出すことを一応可能とさせていたのです。あとは、戦場で学ぶしかありませんでしたが。

 

 

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