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日露戦争後、何が起きていったかが意外と知られていないので当時の新聞から。
日露戦争は1905(明治38)年10月14日、両国の講和条約(ポーツマス条約)批准で終わりを告げます。国内では、賠償金を取れなかったと反対運動が荒れ狂いましたが、もはや陸軍には将官の後詰がいないような状況でした。そのうえでの講話です。
ところで、講和の後はどうなったか、意外と曖昧模糊として知られていないと思います。実際、世界の動きも複雑でした。そこで手始めに日露戦争の講和条約全文を掲載した同年10月17日発行の信濃毎日新聞号外を見てみましょう。
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第一条は両国の間の将来の平和と親睦あるべし、となっていて、日本が一番ほしかったのが下写真の第二条です。
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「日本国が韓国に於いて政治上軍事上及び経済上の卓越なる利益を有することを承認し、日本帝国政府が韓国に於いて必要と認むる指導保護及び管理の措置を取るに当たり之を阻害し又は干渉せざることを約す」。
日本政府が絶対欲しかったのが、大陸進出の足掛かりとなり、また防衛上の障壁にもなるとしていた韓国での優越的な地位を、国際社会が承認することでした。韓国への本格的な干渉ー併合への道は、ここから始まったと言っても過言ではないでしょう。そして、この条文について韓国政府は全く知らされず、大国同士で決めて押し付けられた「不平等条約」であった点も、当時の帝国主義戦争の特徴をよく表しています。
そして第3条は、基本的に両軍が遼東半島租借権が効力を及ぼす範囲を除いて満州から撤退し、ロシアが占領している満州の地を清国に戻すとの内容。そして、第4条が清国、満州の発達のため列国と協商するのを妨げないとしてここらに米国など各帝国への配慮がにじみます。そして下写真の第5条です。ここに、第3条の「遼東半島租借権」が効いてきます。
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「ロシア帝国政府は清国政府の承諾を以て旅順港、大連並びに其の付近の領土及び領水の租借権(略)一切の権利特権及び譲与を日本帝国政府に移転譲渡す」。続いて第6条で長春旅順港間の鉄道や炭鉱を清国政府の承諾を以て日本政府に移転譲渡すると。つまり、ロシアが清国に借款を押し付けて(日清戦争の賠償、三国干渉による遼東半島返還の見返りを清国が支払うため)入手したものの権利を、日本側が受け取るということになるのです。
このあたりも、実は清国政府からは「領土に武力を用いたことは遺憾であり、講和協議中に清国に関連することがあっても相談がなかったことは一切認めない」と講和談判前に発言されていました。しかし、内容を秘密にして、両国だけで取り決めたのです。ここには先の韓国同様、清国の意思はみじんもはいっていません。清国にとって結果だけ押し付けられる「不平等条約」なのです。同年11月からは日本と清国の間で協議が行われ、12月「中日会議東三省事宣条約」及び追加約款(日清満州に関する条約)を締結。清国は5条、6条の内容を飲まされることになります。清国にとっては、支配者がロシアから日本に変わっただけのことでした。膨大な戦場の被害も負わされて。
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ついでに、英国との日英同盟新条約についても触れておきましょう。
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イギリスは第3条で日本の韓国における日本の優越と、必要に応じた指導措置を取ることを承認します。当然、韓国の意思は入っていません。そして見返りに、第5条でのイギリスのインドでの地位を認めます。
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これが、帝国主義列強への仲間入りの実態でした。
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中国では清国で義和団事件が起き列国が干渉、辛亥革命を経て中華民国成立に至りますが、日本としては、満州利権の租借期限をできる限り延長したいと考えていました。そこにやってきたのが1914(大正3)年7月に勃発した第一次世界大戦です。
日本は英国からの参戦申し出を引き受け、英国が望む以上に、自分たちがやりたいことをやります。青島のドイツ軍要塞を攻略、中国側に指定された戦争区域を越えて済南など関係ない場所も占領し、中国側の1915(大正4)年1月7日の交戦区域廃止と撤退要求を拒絶。逆に1月18日、21か条要求を列強に隠れて中国政府に突きつけます。中には、政治顧問を入れさせるという、属国化する条項もありましたが、主眼は日露戦争で得た各種租借権の期限延長でした。
中国政府は交渉を暴露するなど、抵抗を試み、激しい排斥運動が上海などで起こりました。それでも日本は世界的な避難を浴びた政府顧問の条項削除など一部譲歩しつつも、最後通牒を突きつけ軍艦を派遣、陸軍も増派。中国は軍隊の力を露骨に出して来る日本に譲歩することになります。これにより、租借権の期限は99年間に延長され、十分な開発の余裕を得ます。
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上写真の号外は「屈従の意あり」と中国を見下げる意思が出ています。最終期限は8日と詰め寄られる中で、中国政府は受諾を決定します。
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そして調印は5月9日となりました。日本は満州権益の強化を得ましたが、結果として、調印せざるをえなかった5月9日は中国では「国恥日」となり、学校の教科書で教えられるほどの、日中間のとげになったのでした。対等の貿易関係を築いて力を合わせていくという発想は皆無なのが、帝国主義陣営の大日本帝国の姿でした。
2024年7月7日 記
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