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日中戦争の物資不足下でも、鏡餅ぐらいは立派なものにしたいーという庶民の気持ちに応えて登場したのは…

 皆さま、2023年の大みそかですが、新年の準備はいかがでしょうか。
 さて、86年前の1937(昭和12)年に始まった日中戦争が南京占領、武漢三鎮占領と進撃しても蒋介石政権は重慶に遷都して徹底抗戦を重ね、戦争の終わりが見えなくなっていた1940(昭和15)年、11月から日本国内ではコメの配給制(割当。有料)が始まり、自由な取引ができなくなっていました。
 長野県内ではモチ米が足りなく、12月も下旬になってようやく配給量を確保できるという始末。そんな1940年の年の瀬、松本市に登場したのが長野県内初お目見えの「陶器製鏡餅」でした。

大きな三宝に収まった陶器製鏡餅

 信州戦争資料センターが所蔵する陶器製鏡餅は3点あり、長野市内の陶器店にあった昭和20年代製造の戦後品と、現在の須坂市の店に残っていたやや小ぶりのもの2点です。上の写真で示した陶器製鏡餅は戦後品ですが、戦時中のものと特に変わりません。素焼きで直径24センチほど。2升分の鏡餅と同じ大きさのようです。 

未使用品で陶器製でも輝きはお餅そのもの

 内部は空洞になっていて何か入れられるようです。その理由が、1940(昭和15)年12月26日付信濃毎日新聞に載っていました(難しい漢字を適宜直し、句読点を入れ、読みやすくしてあります)。

内部は空洞の陶器製鏡餅

 『神様、代用品ですが… 尖端を行く陶製の鏡餅

 【松本】ならべられた茶碗皿類の中に君臨するのは、これこそ代用品の尖端をゆく陶製鏡餅である―酒がない餅米がない新体制下のお正月が迫りつつあるが、こうした時勢でもより大きな鏡餅をそろへたいのは人情である。そこで軍都(注・松本市=歩兵第50連隊の駐屯地があったため)のさる陶器屋さんの店頭にこれが初見参すると羽根が生える様にうれていった。

 素焼きの見るからに見事なもので一合二合とりから三升とり位までその大きさによって作られており、値段も小は八銭から大は一円四十銭くらいまでで毎年使えるから重宝だ。

 いくら餅米がなくてもお鏡だけは本物でという、うるわしい敬神崇祖の念に応えて陶器屋さんは「これはふた物式に出来ていまして、中へお米なりお餅なり入れることが出来ますので、少しもそうした感じをそこなわれる事がありません」「農家辺りでは八割位はネズミに引かれてしまう。こうした時代には全くもったいないことです」ともっぱら不経済論を説いていた。』
(引用終わり)

 なるほど、外側は代用でも中に本物があれば良いと。

 なら、我が家のこれも大丈夫ですね!

現代の代用鏡餅

 振り返ると2023年は、ウクライナの戦争が解決しないうちに、イスラエルのガザ侵攻も生じるというとんでもない年でした。中の人も微力ながら、現地への思いを込めて国境なき医師団に複数回寄付をしてきました。来年こそ、何とか国際社会の力で解決に向かってもらいたいと願っています。

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