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フィリピン・バギオで戦死とされた竹内浩三さんのことー「赤子 全部ヲオ返シスル」と「骨のうたう」

 中の人は三重県の出身である。その三重県宇治山田市(現・伊勢市)で1921(大正10)年に生まれた竹内浩三さん。1942(昭和17)年9月、日本大学専門部映画科を繰り上げ卒業、10月から三重県の久居連隊で初年兵勤務、そして筑波山ろくに新設された挺身滑空部隊に転属となり、1944年末、フィリピンへ斬り込み隊として投入され、1945年4月9日、バギオ北方で戦死したとされる。戦死公報のみで、遺骨は届けられなかった。

 戦時中の多くの戦死者の1人であり、まさしくその通りなのだけれども、竹内浩三さんは死ぬまでにさまざまな詩や文を残し、仲間と同人誌「伊勢文学」を発行した。中の人の父が逃げ惑った1945年7月の宇治山田市への空襲で竹内浩三さんの生家は全焼するが、松阪市にいた姉、松島弘さんの手元に、送り届けられた遺稿と日大時代の学生帽が残った。この学生帽は「一片のみ骨さえなければおくつきに手ずれし学帽ふかくうずめぬ」との弔歌とともに葬られる。

日大時代の竹内浩三さん。写真は「竹内浩三作品集」(新評論)より

 その後、竹内浩三さんの作品は、友人の手により日の目を見、広く流布される。そのうちの一つ「骨のうたう」を紹介したい。
           ◇
 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や

 白い箱にて 故国をながめる
 骨もなく なんにもなく
 帰っては きましたけれど
 故国の人のよそよそしさや
 自分の事務や女のみだしなみが大切で
 骨は骨 骨を愛する人もなし
 骨は骨として 勲章をもらい
 高く崇められ ほまれは高し
 なれど 骨はききたかった
 絶大な愛情のひびきをききたかった
 がらがらどんどんと事務と常識が流れ
 故国は発展にいそがしかった
 女は 化粧にいそがしかった

 ああ 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 こらえきれないさびしさや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や
 (「竹内浩三全集ー1 骨のうたう」小林察編・新評論)
           ◇
 この詩は1942年8月3日、久居連隊への入営を目前にして、最も多作だった時代に書かれたもの。1956年の私家版「竹内浩三作品集」に掲載されて世に出る。ただ、実は本人の原文は1947年8月の「伊勢文学」の追悼号に掲載されていて、この作品に友人が手を加えたものだが、言葉はすべて竹内浩三のものを使って居る。原文は以下の通りである。戦争を目の前にした作品、戦後の視点の作品、いずれも大事にしたいと思う。
           ◇
 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるやあわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や

 苔いじらしや あわれや 兵隊の死ぬるや
 こらえきれないさびしさや
 なかず 咆えず ひたすら銃を持つ
 白い箱にて 故国をながめる
 音もなく なにもない 骨
 帰っては きましたけれど
 故国の人のよそよそしさや
 自分の事務や 女のみだしなみが大切で
 骨を愛する人もなし 
 骨は骨として 勲章をもらい
 高く崇められ ほまれは高し
 なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
 絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
 それはなかった
 がらがらどんどんと事務と常識が流れていた
 骨は骨として崇められた
 骨は チンチン音を立てて粉になった

 ああ 戦死やあわれ
 故国の風は骨を吹きとばした
 故国は発展にいそがしかった
 女は 化粧にいそがしかった
 なんにもないところで
 骨は なんにもなしになった
 (「竹内浩三全集ー1 骨のうたう」小林察編・新評論 解題より)
           ◇
 今回、竹内浩三さんを取り上げるにあたり「筑波日記」を紹介したい。

「竹内浩三全集ー2 筑波日記」(新評論)

 これは、竹内浩三さんが筑波山ろくの訓練の日々に欠かさず書いた日記で、2冊を残してフィリピンへと旅立った。その中身ももちろん大切だが、ここでは1冊目の手帳の裏表紙に書かれた3行の文に注目したい。

「竹内浩三全集ー2 筑波日記」より

 赤子
 全部ヲオ返シスル
 玉砕 白紙 真水 春ノ水

 この1冊目は1944年1月ー4月28日に書かれた。といっても、この文章が書かれたのはいつか、までは判然としないが「春ノ水」とあることから、書き終えた時に裏表紙へ追記したと思える。
 この3行の文の意味するところは重大だ。当時、臣民は皆天皇の「赤子」であり、天皇のために尽くすことになっていた。その「赤子」であることを返上するというのだ。「玉砕」「白紙」と続く言葉は、戦死することによって、当時の絶対であった天皇制からの離脱を実現し、その肉体まで返上して、精神を自由にするという意味であろう。それが「真水」であり、戦争という冬の時代を経た「春の水」、戦後の自由な世界を望んだのか。

 長野県安曇野市出身の特攻隊員、上原良司さんも、戦争の後に来るであろう、自由な社会を夢見た点で、竹内さんと共通するものがある。出撃の前夜に記した「所感」には「自由の勝利は明白なことだと思います」「真に日本を愛する者をして、立たしめたなら日本は現在のごとき状態にあるいは、追い込まれなかったと思います」「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」とある。これは、新聞記者に託され残った。
 また自宅に残した「遺書」には「人間にとっては一国の興亡は実に重大なことであります、宇宙全体から考えた時は実に些細なことです」とある。(いずれも「あゝ祖国よ恋人よ」(私家版)より)
 上原さんは1945年5月11日、出撃した。竹内さんがなくなった公報から、1か月。ほぼ同じ時期に、同じように感性を、意思を貫いた若者が死んだ。

 これが戦争である。戦争は、若者を苦しめ、そして国家という権力者の集まりが興亡を決するもの。やってはならない。避けねばならない。次世代の、そのまた先までの若者を護るため。

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