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教育大国長野 近代学校の黎明期を知りたい!

こんにちは! 探究ひろばのみつです。

私は、修学旅行で偶然(雨になってしまい…)旧開智学校に行ったことがあるのですが、行ってみると、とてもきれいな建物と、当時の子どもたちの学習環境が丁寧に保存されており、高校生ながら感動した覚えがあります。

今、改めて調べてみて、長野県は教育に熱心な県として有名なようですね!
旧開智学校を始めとして、長野県には、多くの、明治初期の近代学校建築などを見ることもできます。

今回は、長野県の教育について近代学校の成立期を見た論文をベースに、長野で育まれた教育の土壌について考えてみたいと思います。

論文は、中田(2015)『明治時代の学校建築から見えてくる教育思想・文化―長野県内に現存する学校11校を事例に(その一)』です!


1.長野県の教育の源流

1-1.地主層の学問への関心の高まり

まず、長野県においては、比較的経済的に余裕があり、勉学に割くスコレー(余暇)のある地主層を中心に、学問への関心が高まったようです。

”近世における教育は,武家の学校と庶民の学校とが別々に設けられ,二系統の学校が並立しながら,各々独自の発達をした。”
(長野県において)”生活に余裕が生じてきた地主たちは,特に元禄・享保年間に余暇として和歌・ 俳句を嗜むと同時に,心学や国学を学ぶようになった。”

中田(2015)

1-2. 寺子屋の普及

次に、庶民の側からも、自力による寺子屋づくりが盛んになり、総じて信濃国全体で教育が盛り上がっていたようです。

信濃における寺子屋数は1341 で, 埴科郡でも研究者によって 38 や 86,155 などの諸説がある。しかし,信濃地方の寺子屋の普及度は非常に高いものがあったと推測される。
庶民が日常生活に必要 な読み・書き・そろばんなどの基礎学力の大切さを自覚して子供に通わせ,庶民の積極的,主体的な学習によって支えられた教育機関であるところに,現代を含めた教育史の中で重要な意味を持っている。

中田(2015)

1-3.長野県が教育県と言われる由来

これについては、ネット上でレファ協さんが回答してくださっているので、引用させてもらいました!

やはり、寺子屋などの江戸時代の素地を元に、そこから明治時代に教育に多くの人が参画したことで、教育県として有名になっていったようですね!

2.近代学校の成立 ~1872(明治5)年の「学制」発布後~

では、具体的にこの論文で紹介されている長野県の近代小学校について、冒頭の3つの学校をみなさんと一緒に見ていければと思います。

1.旧座光寺麻績(おみ)学校


旧座光寺麻績学校校舎 - 飯田市ホームページ より

"長野県下でも一番古い学校である。(中略)
座光寺地区は,江戸時代から国学の非常に盛んな地域であり,寺子屋が数多く開かれるほど教育熱心な村であった。村では,“権令の御触れ”をいち早く取り 入れ学校を創るべき動きが生じたのである。"
"とりわけ村の青年層が,積極的に学校建設に協力した。また建築資材として高岡の森から 22 本の杉を切り出し,もちろん村中から木・米・竹・石・瓦・土地等はもちろんのこと,お金などの寄付が寄せられた。 当時の村の人口が 1,500 人程度であったが,校舎建築のお手伝いをしたのが,延べ人数で 8,282 人であった。"

中田(2015)

まずは、麻績学校です。グーグルマップでも、きれいな桜を見れますよ。

教育にはお金がかかると言いますが、現在のように地方自治体によって公立の学校ができるわけでは無く、地域の自助努力によって学校が作られていったようです。長野県の方々の教育への思いが伝わってきました。

2.旧中込学校

旧中込学校 | 佐久市ホームページ より

"当時,建築に要した費用は 6,098 円 51 銭 8 厘で,その大半を村内有志の寄付によるものであった。これは,長野県の小村としては画期的な試みであるとともに, 村民の教育に対する情熱の発露である。"
"太鼓楼の天井面には方位図が描かれ,中央に佐久の 地名,次に八方の山の名が,次に直江津・水戸・東京・ 清水など国内の都市の名,さらにその外側には外国の都市や山の名が記されている。この取り組みは,山国の子どもたちに地球的規模の視野を開かせようとした 当時の教育者の思いを直に感じることができる。"

中田(2015)

中込学校です。長野県は山に囲まれて、海の向こうを眺むのはなかなか難しい県でもあります(私の友人も長野に移住して、その景色を見せてもらいました。 アルプスの雄大さがすごかったです)

そんな中、海外に思いを馳せ、次世代に期待をかけた長野の先人たちの思いが伝わってきました。

3.旧開智学校


国宝旧開智学校校舎 | 松本市公式観光情報 新まつもと物語 より

開校当時の教員は 33 人,生徒は 1,051 人という大規模校で,これは,江戸時代の松本藩校崇教館とその後 進の筑摩県学から続く,教員や組織の基盤があったことが大きかったようである。
教科は,読本課・算術課・習字課・英学課が設けら れた。英学課は,和訳翻訳やリードル(=リーダー) の授業だけでなく,万国史(=世界史)や理科などの学修も行われていた。県下で開智学校のみという先進的な取り組みであった。英語課は後に中学校に発展するように,高度な内容の授業が行われていた。

学区内全戸の個別献金並びに県官,教員その他融資の特使寄付金及び廃仏毀釈で取り壊した寺の古材売却金などによって調達をした。

そして、旧開智学校ですね。ここは、私も中に入らせてもらったのですが、確かに、結構規模も大きく、当時の机や掲示板なども残っていました。

教育に対して豊かさを追求するために、多くの人が協力し、地域一体となって、子どもたちに掛けた気持ちが分かりました(^_-)-☆

3.この研究領域の課題

中田さんは今回の調査研究をこのような言葉で〆められています。

"特に現存している11 校の創設の背景や事情等についての,個々の研究書も皆無であり,論述した中には, 推測した状況の中で記述した個所も存在している。"
"学校によっては耐震工事中や入口が施錠されたまま,荒れ果てた印象をもただるを得ない施設も存在したことは事実である。明治時代に地域住民の協力によって創設された学校をぜひとも後世に残していただきたい。このことを最後に論を閉じたい。"

このように、多くの方にこれから関心を持ってもらうことで、こうした学術研究が進むと良いですね!

今回の論文紹介は以上です! 史跡公園として整備されているところも多かったようなので、ぜひこの春に行ってみてください!

文責:みつ



[文献URL等:]
明治時代の学校建築から見えてくる教育思想・文化―長野県内に現存する学校11校を事例に(その一), 中田, 正浩, 2015: 奈良学園大学人間教育学部, 155–166 p.


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