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「社会人=働いている人」は変じゃないか

社会人という言葉の意味は、説明しなくてもわかるだろう。①学生ではなく、②働いて収入を得ている、そういう人たちである。ここで大事なのは、①と②が合わさって初めて社会人を名乗れるところである。

例えば、①「学生ではない」だけを満たすが社会人とは呼べない代表格に、ニートがいる。彼らはただ単にニートなのであって、学生でなくても社会人ではないだろう。また、②「働いて収入をえている」が、社会人と呼べない人もいる。それはもちろん、バイトしている学生のことである。月15万くらい稼いでいようが、大学に在籍していれば彼らは社会人とは呼ばれない。

「社会人」という言葉とセット、あるいはほとんど同じ意味として使われている別の表現に、「社会に出る」という言葉がある。この表現の意味は、「社会人」とほとんど同じである。すなわち、学校を卒業して仕事をして収入を得る立場になる、というような意味である。「社会に出たらやっていけないよ?」と、以前のバイトで副店長に3回くらい言われた。僕の怠惰さに耐えかねて、社会人という身分を利用して脅迫をしていたんんだと思う。あれは怒っていたのかもしれない、今気づいた。

ここまで、①「学生でないこと」②「働いていること」を表すための表現に、「社会」という単語が使われていることを見た。ここで「社会」とは何かを考えておくことは、結構大事なことだと思う。自分は曲がりなりにも社会学部所属なので、このへんの議論は頑張れば2時間くらいできるが、今回はそんな話は必要ないと思われる。直感的に、「社会」という単語の意味を考えれば十分だろう。

「社会」の定義、あるいはこの言葉から連想されるものはなんだろうか。日本社会、社会保障、社会福祉、社会問題などなど、色々あるだろう(一旦「社会人」は省いてみてほしい)。日本社会といえば、日本人の定義はどうあれ、日本人が暮らしている環境や土地について言及しており、社会福祉といえば、その国で暮らす人々の最低限の生活を保障する制度に言及していると思われる。

ここで考えたいのは、「社会」という言葉単体で考えたときに、先ほど見た「社会人」の①も②もどちらの要素も混入していないということだ。日本社会や社会問題といったとき、それは①学生ではなく②働いて収入を得ている、人たちだけについて言及しているのではなく、ある領域や環境に住む、全ての人々について言及していると思われる。

「日本社会に暮らす人々」という文言を考えたとき、「日本にいる学生ではなく働いている人々」を想像する人はいるだろうか?「社会問題」について考えるとき、「学生ではなく働いている人々に固有の問題」という風に捉える人はいるだろうか?例えば、少子高齢化というデカめの社会問題は、「学生ではなく働いている人々」だけの問題なのだろうか?

そんなことはないだろう。社会問題は働いていなかろうが学生だろうが関わってくる問題だし、①も②も満たさずとも社会に暮らすことは可能だと思われる。

そんなわけで、「社会」という単語には、「社会人」「社会に出る」という文脈で使われる時と、一般的に日本社会、などの文脈で使われる時とでは、小さくない意味のギャップがあるといえそうである。

なぜこれらの表現は、「社会」という単語の本来の意味から離れているのにもかかわらず、ここまでの市民権を得ているのだろうか?この問題はまた長くなりそうなので、別の機会に譲ることにする。もう少し整理してから書く。



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