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わかりやすい文章を書きたい人へ

この記事はおそらく、わかりづらい。しかしこの記事では、わかりづらいのは僕の執筆力が足りないのではなく、読者が馬鹿だからである、といった結論を出す。

文章に限らず、自分の思ったことを伝える際に「わかりやすさ」を求めらられる場面は多い。仕事で上司と話す場面や、相手が知らない分野の話をする場面など、限られた時間で膨大な情報を伝えなければいけない際には、端的に情報を相手へ届けることが求められる。

ここでは一旦、音声言語ではなく、文という文字言語に注目し、読み書きのみを取り上げて、「わかりやすい文章」について考えてみる。

僕にとって、わかりやすい文章を書くこととは、論理的な文章を書くことであった。論理とは、誰にでも直感的に理解できるような簡単な規則のみを用いることであり、論理的な文章を書くとは、読者が全員納得するような筋の通った文章を書くことだと考えていた。

そのため僕は、わかりやすい文章を書くために、論理的であることを突き詰めようとした。しかし結論から言うと、論理的な文章を書くことで、むしろわかりやすい文章からは離れていくことになった。

論理的であることを突き詰めようとすれば、原子命題・選言・連言・否定・含意などの論理学の道具立てを用いて、丁寧に丁寧に飛躍のない文章を紡ぐことになっていく。これらの単純な規則に従えば、矛盾のない緻密で明確な文章を書くことができるだろう。

しかし結局、丁寧に丁寧に論理を追って文章を書くことは、冗長で情報量の少ない文章を書くことへと変貌していった。論理的に正確で丁寧な文章を書くことで得られた読者からのフィードバックは、「あなたの意見はとてもわかりやすかったです」ではなく「面白くなくて読むの途中でやめちゃった」であった。

どうやら、論理的であることを突き詰めたところで、それは無駄に丁寧な文章を書くことに終始してしまい、最も肝心な僕が何を伝えたかったのかということまで辿り着かないことが多いらしい。つまり、論理的であることを突き詰めても、わかりやすさには直結しないらしい。

少し考えてみれば当たり前なのかもしれないが、このことは僕にとって衝撃的であった。なぜなら、論理とはある程度の知性があれば普遍的にも用いることができる道具であり、それに従っていれば矛盾がなく、読んでいる際に引っかかることのない、正しくてわかりやすい文章を書くことができると思い込んでいたからだ。

しかしどうやら、「わかりやすい文章を書いてくれ」という人たちは、文章の論理的明確さとは異なるものを求めているらしい。それは一体なんなのか。

「わかりやすさ」を叫ぶ人たちが求めるもの、それは論理的な明晰さではなく、認知的な負荷の軽さなのではないだろうか。

すなわち、「わかりやすさ」とは、時間や前提知識がない中で、情報の受取手が効率的に文章を理解できるか否かという、読者や聞き手が一方的に欲している概念なのではないだろうか。

例えば、あと1週間でテストのための勉強を終えなければならない場合には、先生による複雑だが情報量の多い授業スライドよりも、大雑把だが広範囲をカバーできて尚且つ簡単に理解ができる、まとめノートの方が重宝される。

授業スライドよりもまとめノートがありがたがられる背景には、まとめノートを理解するための認知資源は少なくて足りる、ということが挙げられる。授業スライドには、聞いたことのない固有名詞が小さい文字で羅列されているのに対して、まとめノートでは、「二項対立」「類似」「x個の規則だけ覚えればOK」などの、生きていればどこかで見たことがある、汎用性の高いフレームワークによって情報が凝縮されている。このような枠組みは、すでに知っていることが多いため、新たにものを覚える必要がなく、脳に負担をかけることなく情報を取り込むことができる。

このように、わかりやすさとは、情報の受取手の余裕がない場合に、いかに効率的に情報を収集するかという点に関わっていると思われる。

時間や深く考える余裕がない時に、わかりやすさを求めるのは合理的である。なぜなら、ある一文を何時間もかけて理解するよりも、他にやらなければならないことがたくさんあるからである。

逆に、時間や精神的な余裕がある時に、認知的負荷の低い文章=わかりやすい文章を求める理由はあるだろうか。

そんなものはない。むしろ、わかりやすさを求めすぎることは、既存の認知資源の範疇でしか文章/物事を理解しようとしない姿勢に繋がりかねない。すなわち、自分にとってわかりづらいものを理解しようとして、学びを広げることができなくなる。

「わかりやすく言うとそれはどういうことなの?」「結局何が言いたいの?」「一言で言ってくればい?」等の発言は、裏返せば、「私は読解力のないバカなのでもっと簡単に言ってください」と表明しているようなものである。バカであることは何の罪もないが、自分が偉いことや情報発信者よりも楽な立場にいることに胡座をかいて、自分が理解できないことを「わかりづらくて無価値なもの」と切り捨てるのは、単なる思考停止であり、無知以上に重罪かつ身勝手な所業である。

この記事を完全に理解する必要はないし、わかりづらい文章に無理やり意味を見出してわかったつもりになる必要もない。しかし、「わかりづらさ」を自分ではなく他人のせいにするような態度を保持し続けていれば、頭でっかちで独りよがりにな、自分で物事を考えることができなくない馬鹿になるだけであるということは、常に心に留めておくべきである。

よろしければぜひ