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なぜ「わかりやすい」と思ったのか

わかりやすさは、文章にとって大事である。実践するかどうかはともかく、わかりやすさのための方法論もある。しかし、それは大抵、書く側の工夫である。読む側が、難しい文章をわかりやすく理解する方法論はあまりない。

わかりやすい文章というものがある。なぜ、「わかりやすい」と思ったのか。

「わかる」ということに、難しさの尺度があるということである。難解な本は、わかりにくい。簡単な文章はわかりやすい。例えば、文章を一読してその内容を解ることができた。それは、わかりやすい文章だということだ。逆に、何度読んでもわからない時は、わかりにくい文章に当たったということだ。

わかりやすさとは、いろいろな要因で作られているように思う。時間的に、短時間で理解できることは分かりやすい。簡潔な文章や、シンプルな内容は分かりやすいから肯定されているのだろうか。

数学者は、数学をわかりやすいというだろうか。数学を学ぶ人は、何年もかけて一つの概念を理解する。私は、体験したことはないが、概念を一度理解してしまったらそれからは当たり前のように感じるそうだ。数学は、時間的には難しい。しかし、論理がどこまでも一貫しているという点ではシンブルで単純だ。しかし、それゆえにわかりにくいということが起こる。現実世界では考えないような抽象的なものを扱うからだ。

何をわかりやすいと思うかは人それぞれである。シンプル過ぎてもわかりにくい。その人それぞれの中で、なぜ「わかりやすい」と思ったのか。

多くの人に伝わりやすい文章を書きなさい、と言われる。わかりやすさの話で言うと、「多くの人」にとってわかりやすい文章を書けということだ。同じに思えるが、少しちがう。「多くの人」は、対象の一つに過ぎない。「多くの人」に分かりやすくても、そのカテゴリーに入らない人には分かりにくいかもしれない。

「多くの人」をターゲットにするのは戦略の話なのである。伝わりやすいかもしれないが、絶対の成功を保証するわけでもない。これがいい文章だと定義しているわけでもない。

誰もに伝わるようなユニバーサルな文章では、よくわからないことがある。

言っている人が誰なのかによってわかるかどうかも影響してくる。近くの友人や家族のアドバイスは、例えどこかで読んだようなことであっても実際に言われると身にしみる。

自分の独自の分かり方があって、誰かに言われてもわからない人もいる。結局自分の問題に対する最終的な答えは、自分でわかる。

なぜ「わかりやすい」と思ったのか。それは、読んでいる自分は何をどう読んでいるのかを問うことだ。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!