人はなぜ無駄話をしてしまうのか
やってみたい実験がある。ざっと説明すると以下のようなものだ。
僕はサイコパスサイエンティストではないので、こんな意味のわからない実験を考えた経緯を伝えればある程度理解してもらえると思う。以下の話がっこの実験に辿り着くまでは少し遠回りになるが、ご容赦願いたい。
まず僕が考えていた問いは、「コミュニケーションには目的があるのか、それとも自己完結的なものなのか」ということである。
コミュニケーション(以下com)に目的があるとは、comはある目的を達成する手段として機能するし、手段として使用されるということだ。
例えば、新しいクラスになって隣の人と自己紹介をしたりどこの中学から来たのかなどについて話すのは、その人と仲良くなり友達を作るため、円滑な人間関係を作るためという目的があるだろう。そこでは、仲良くなるという目的のためにcomが手段として利用されている。
すなわち、comを介して何らかの上位目的を果たそうとしている場合、comにはそれを超えた目的がある、と言える。
反対に、comが自己完結的なものであるとは、上位目的なるものはなく、ただcomのためにcomを行っているということである。目的のないcomを、我々は日常的にたくさん行っていると思われる。所謂雑談や無駄話といったものがそれにあたるだろう。そこで行われるcomはなんら生産性を持たず、comをするという営為が独立していると思われる。
先ほどの問いは、簡単に言い換えると「comには目的があるか、あるいはそれ自体として行われるものなのか」というものであった。これだけでは大きすぎる論点なので、それぞれの答えを仮定した場合に、どのような問題や新たな論点が出てくるかということを考えたい。
まずcomには目的があると仮定する。こちらは結構話が簡単な気がする。要するに、comが行われている各場面で、各場面におけるcomの目的を設定すれば良いのだ。例えば、会社の会議の目的は企画のアイデア出しだったり情報共有だったりするし、口喧嘩の目的は不満を発散することでお互いの関係をより長期的なものにすることだったりする。
他方で、comがそれ自体を目的として行われる場合、それは何を意味するのだろうか。所謂何の得にもならない雑談や無駄話が考えやすいと思われる。もし無駄話にそれを行うこと以上の目的がないとしたら、「なぜ無駄話をするの?」という問いに対する答えは「無駄話をしたいからだ」という、何の捻りもないものになるだろう。
この話は趣味に目的がない話によく似ている。大昔の人間が食糧を得るために釣りをしていたのに対して、現代趣味で釣りをする人は、食糧を得るためではなく、ただ釣りをしたいが故に釣りをする。無駄話をする人は、単に無駄話をしたいだけなのかもしれない。
ここで、comが自己目的化しているという仮定を保持するならば、別の角度の疑問が湧いてくる。それは、comが人間にとってそれ自体として目的となりうるのはどういう仕組みか、というものである。簡単に言い換えると、人が無駄話をしたくなってしまうのは人のどういう性質によるものなのか、ということである。
今は仮説として以下のことを考えている。
逆にいうと、複数で集められた時にcomを全く取らないのは不自然な、あるいは異常な人間である、ということである。
ようやく先ほどの実験に戻ることができる。実験は、何の目的もなく人2人を部屋に入れるというものであった。あの実験で僕が確かめてみたいのは、人間は何の目的もない時にコミュニケーションを取るのが通常形態なのか、あるいはコミュニケーションを取らずにお互いを無視するのが通常なのかということである。
実験のルールに、自分のことについて話してはいけない、というものを置いているが、これは、初対面の人2人が出会った時は、まず「自己紹介をして仲良くなる」という目的が簡単に設定できてしまうからである。このルールを設定しないと、自己紹介をして仲良くなる絵面が容易に想像できてしまうので、それを防ぐことが必須だと考えた。
想定できそうな結果としては、部屋の中の人は何かしらについて話し、コミュニケーションを取ろうとする、である。またその理由として、「話さないと気まずい」などの答えが想像できる。もしこれが正しければ、「気まずい時の人間の脳状態」とかを調べて、人間はその気まずい脳状態を避けるためにコミュニケーションを取るようにできている、なんてことが言えるのかもしれない。
心理学専攻の人教えてください。
よろしければぜひ