見出し画像

【書評】『ポストトゥルース』ーフェイクが溢れる世界をどう生きるかー

※長々と書いていますが、序だけで完結しているので、そこまで読めば大体わかります。


ポストトゥルース。日本語で丁寧に言い換えれば「真理の後の時代」。もっと意訳して言えば「真理のない時代」だろうか。

リー・マッキンタイア(Lee McIntyte)による本著作は、真理のない時代とは何か、なぜそれが生まれたのか、何も信頼できない世の中でどう振る舞えば良いのかが、哲学に縛られない豊富な分野の知見を援用して論じられている。

本記事では、本書の大筋を紹介した後、個人的に興味深いと思った章の内容を簡単に要約し、最後に自分の考えたことを簡単に残しておく。


序ーポストトゥルースと日本ー

ポストトゥルースとは何か。一言でいえば、真理や事実を気にかけず、理性ではなく情動に訴えっかけてくる言説に価値をおいてしまうような態度、政治的運動、社会的風潮などのことである。

論破ブームなんかがわかりやすい例かもしれない。正しく生産的な議論を進めるのではなく、話を逸らすこと。自分の主張を擁護するのではなく、相手の重箱の隅をつつくこと。非難されれば開き直り、本筋とは関係ないところで相手の人格を貶めること。これら全てが、ポストトゥルース的な事象である。

SNSで流れてくる脱毛や整形の広告なんかを考えてみよう。例えば毛が濃すぎるとモテないし出世もできないし孤独に死んでいく、だから脱毛しようぜ!みたいなとんでもない設定のストーリーが紹介されていたりする。現実ではあり得ないような状況を設定し不安を煽って人から金を巻き上げているという点では、これもまたポストトゥルース的な営みである。ポストトゥルースは、日常に溢れている。

他にも、暇アノンと呼ばれる集団やその語源ともなったアメリカのQアノンなんかが、ポストトゥルース時代を代表する社会現象として捉えられるだろう。彼らの特徴は、敵に対してはとんでもなく高い挙証責任を押し付けるのに対して、自分たちはいとも簡単に真実の語り手になってしまうことである。彼らにとって真実や事実は、敵を貶め自分たちの「すごさ」を誇張する道具でしかない。

自分たちの利害と一致するものだけを主張し、それ以外は陰謀論と喚き散らす集団は、いつの時代どこの地域にもいたのだろう。しかし現代では、そうした集団や現象が世界を侵食し始めているのである。あるいは、すでに相当な割合で侵食されているのかもしれない。

マッキンタイアによる本著作『ポストトゥルース』は、なぜ現在世界中で(特に著者のいるアメリカで)このような現象が拡大しており、どのような仕組みで人々が政治的に利用されているのかが、社会心理学や哲学、社会学などの豊富な研究を通して説明されている。本書は、情報氾濫社会を生きる我々にとって、自身の立ち位置と向かう先を見失わないよう教えてくれる、コンパスのような存在になるだろう。

本書の概要について、簡単な紹介をしておこう。

マッキンタイアによれば、人間は誰しも、事実ではなく、自分や自分が属する集団が信じたい言説を正しいと思ってしまう傾向性、つまりバイアスを持っている。さらに現代のマスメディアは(特にアメリカでは)、客観的で正当な情報よりも、より人々の注意を惹き自身の利益につながるような報道をしており、時には過度な誇張や虚偽が含まれているような報道だってする。加えてソーシャルメディアにおいては、我々は、自分の関心に沿うコンテンツだけを選び取ることができてしまう。そのためそもそも耳触りの良い情報しか得ることがない。こうした事情が全て合わさって、事実よりも信念、理性よりも情動、正しさよりも心地よさを重視する、ポストトゥルースが完成する。

大雑把に内容を伝えれば以上のようになる。細かなツッコミは後ほど行うとして、ここでは簡単に僕自信が考えたことをいくつか述べておきたい。

第一に、マッキンタイアの議論は主にアメリカの政治やメディアに関する議論が中心となっているが、同じことは日本や他の国でも当てはまるだろうということ。

先に述べたように、日本においても、論破ブームといった一見無害なエンタメ的流行から、暇アノンといった明らかに有害なカルト的煽動まで、真理や事実を気にかけず目先の情動や信念に囚われてしまう傾向は随所に見られる。本書を読めば、あるいは最近の大統領選の動きを見れば、情動に訴えかけ、相手の重箱の隅を突く戦略が、アメリカでとてつもない影響力を持っていることが窺い知れる。こうした事例は、日本社会や自分が巻き込まれないためにどうするかを考える示唆を与えてくれるだろう。

第二に、バイアスを逃れ自分を疑い続けることが重要であるということ。本書では、人間が普遍的に持つ認知バイアスによって事実認識が歪んでしまうことが、しきりに取り上げられる。こうしたバイアスは誰しもが持っているものであり、逃れることはできない。

ではどうするか。まずは自分の思考や信念を、バイアスがかかっているのではないかと、疑うことである。次に、自分とは異なる信条、立場の人と積極的に意見交換することである。一人では気づけないバイアスも、第三者であれば指摘してくれるかもしれない。そのためには、政治や社会などの気まずくなりがちな話題について積極的に議論できるコミュニティや友人を見つけることが重要である。

本書は科学哲学を専門とする著者による、半ば専門逸脱的な一冊である。そのため社会心理学や政治学など、各分野の人から見れば、議論の甘い部分が見受けられると思われる(素人目からもわかる大きな懸念を後述)。しかし本書は、ポストトゥルースという目新しい概念について見取り図的を提唱し、今後の研究や我々の生活をどう進めるべきかの指針を提示している。本書を通じて引きの視点から現代社会を考察することには、極めて大きな価値があるだろう。

それでは、詳細な説明に入る。

概要要約

本書は大きく7章で構成されており、第1章の前にマッキンタイアによる序文が添えられている。大まかに、第1章ではポストトゥルースという概念や著者の執筆動機などの説明がなされ、第2章では科学の否定という観点でポストトゥルースが分析される。第3章では打って変わって、社会心理学の実験を引用して人間のバイアスの正体に挑む。第4章でテレビなどの伝統的メディアの没落を見たのち、第5章ではソーシャルメディアの対等とフェイクニュースにまつわる問題が取り上げられる。第6章ではポストトゥルースを導いた背景にはポストモダン思想があるという大胆な説を提示し、第7章ではこれからの時代にどう真理を気にかけて生きていくかの指南がなされる。さらに日本語訳版では、訳者である大橋完太郎がマッキンタイアとは異なる視点で論じる、ポストモダンとポストトゥルースの関係についての附論が、第7章の後に収録されている。

ここで全て取り上げることは僕の時間的にできないので、個人的に関心が湧いた点に注目して本書の内容を取り上げていきたい。

以下では、主に本書の第3章と附論の内容に注目する。

誰もが自分を正しいと思うー認知バイアスー

第3章では、豊富な社会心理学の実験を援用し、人間が普遍的に持つ様々な認知バイアスが紹介される。バイアスによって、人間が正しさではなく信じたいものをへと引き付けられてしまう仕組みは、以下のように要約できるだろう。

人間は、普遍的に、自分の信じたいことを正しいと思いこむ傾向性=バイアスを持っている。見たい投稿を自分で選べるSNSのようなシステムから情報を受け取り続けていれば、バイアスによって、正しいことを信じるのではなく、信じたいことを正しいと思い込むようになってしまうのである。 

様々な社会心理学の実験を参照することで、マッキンタイアは、人間が先天的に持つバイアスが真実をわからなくさせてしまうほどに強固であると論じる。特に重要なのが「動機づけされた推論」と呼ばれる認知活動である。

動機づけされた推論とは何か

マッキンタイアは、「動機づけされた推論とは、真実であってほしいという思いが、実際の真実の認識に影響を及ぼすという考えである」と説明する(p. 67)。

スポーツの試合を見ていて、片方のチームを応援している人が敵チームの反則に厳し目に反応してしまう一方で、自チームの反則については全く問題ないとする光景を、想像してほしい。動機づけされた推論に基けば、このサポーターは、自チームに勝ってほしい・有利であってほしいと信じたいあまりに、自チームは反則をしておらず相手チームはたくさんの反則をしているということが本当である・事実である、と考えしまっているのである。

マッキンタイアは、動機づけされた推論の具体例として、「バックファイアー効果」と「ダニングクルーガー効果」を挙げる。ダニングクルーガー効果とは、「能力に乏しい人物がしばしば自分の能力不足を認識できないことに関する認知バイアス」である(pp. 75-76)。この効果が提唱された実験では、テストを行なった45人の学生に自分が何番目かを尋ねると、学生は概して15位と答えた、という。皆が自信を平均以上だと思っており、実際の自分の成績よりも高い順位を予測した人もいるのである。自分は他人よりも優れている、自分は正しい、という思い込みがいかに強いかが見て取れる。

もう一方のバックファイアー効果は、政治的信念を例にとれば、「特定の思想を支持する人々が自分たちの政治的に都合の良いある信念が間違っているというエビデンスを提示されると、そのエビデンスを拒絶し、誤った信念を『倍増させる』という」現象である(p. 72)。要は、相手の考えは間違っていると証拠を並べても、かえって相手が確信を深めてしまうという現象である。逆効果。

ダニングクルーガー効果もバックファイアー効果も、「自分が間違っているはずがない」「自分の信念は正しいはずだ」といった思い込みや、「自分が正しいと思いたい」といった動機づけによって生じていると考えられるだろう。このように、普遍的に備わっているバイアスによって、人間は正しいことを認識できず、さらには自分の信じたいことのみを信じるようになっていくのである。

ポストトゥルースとの関係

人間が持っているこのようなバイアスは、科学によって積み上げられてきた客観的な知識を軽視するように働いてしまう。特に、マッキンタイアが言うように、交流先や情報のソースを自分で選べてしまう現代においては、情報の選択とバイアスの強化が悪循環をもたらすことは、想像に難くない。

例えばTwitterやFacebookなどのSNSでは、自分の気に入らない投稿をしている人をミュート・ブロックして、そもそも全く見ないようにすることができる。耳触りの良い情報ーー自分の信じたい情報ーーのみを選び、触れ続けることで、自分にとって都合の悪い事実を無視することができる。極端な場合、そうした事実は「事実ではない」と信じ込み、さらに周りの人へ喧伝することもあり得るだろう。

さらにマッキンタイアは、信じたいことに影響を受けるだけでなく、自分が属する集団によって認知が歪む可能性も示唆している。

今日においては、過去に例を見ないほど、わたしたちは自分に賛成する人を取り巻きにすることができる。ひとたびこうしてしまうと、自分の意見を集団に合わせて変えるようにするさらなる圧力がかかるのではないだろうか。

 p. 84

例えば、あなたの友人が同性愛者に対して差別的な発言をしており、それに対して違和感や居心地の悪さを感じたり、間違っていると思いつつも指摘するのは気まずく感じたりする時のことを想像して欲しい。対立を生んで、友人やその場にいる人たちに気まずい思いをさせたくないと考え、結局その発言を見過ごしてしまうことは少なくない。この状況は、以下のように抽象化できるだろう。

わたしたちはみな、たとえ目の前のエビデンスがほかのことを伝えていても、身の回りの人が信じることに意見を合わせる、認知バイアスが組み込まれているというものだ。わたしたちはみな、ある程度、ときに現実そのものよりも、集団の受容を価値あるものと考える。

p. 86

事実であるか否かは、自分の友人がそう信じているか否かとは関係がない。しかし我々にとって、友人や家族などの近しい人が信じていることが間違っていたとしても、それを直ちに却下することはとても難しい。

同性愛者への差別が許されないということは、学術的議論に訴える必要もないほどに、現代人にとっては客観的な事実である。そう信じたくない人がいたとしても、紛れもない事実である。信じたくない人に合わせて差別的な行動を取り続ける人、あるいはその集団には、信じたいことを事実と捉えてしまうバイアスがあると考えられるのである。

ポストモダンはポストトゥルースの生みの親か

ここでは、邦訳版の最後に付け加えられている、監訳者による附論の内容を簡単に紹介する。附論では、ポストモダン思想の専門家でありこの本の監訳者でもある大橋完太郎が、マッキンタイアの主張に対してポストモダンの擁護を行なっている。

まずは第6章の内容を踏まえて、マッキンタイアがポストモダン思想をどのように理解しているかを、大橋のまとめに基づいて確認しよう。

1. あらゆる事象は「テキスト」に還元可能であり、したがって脱構築可能である。あらゆるものについて、ただひとつの正解があるのではなく、複数の答えがある。

2. 真理・事実は存在せず、すべては解釈にしかすぎない。いかなる真理の宣言もそれをおこなう人物のイデオロギーの反映にすぎない。

p. 229

大雑把にいえば、ポストモダンが提示した脱構築や相対主義的な見方が、現在の、真理を気にかけないポストトゥルースの時代を生み出した、というのがマッキンタイアの主張である。そこでは、エビデンスが明らかで科学的に認められている気候変動のような現実までもが、科学者のイデオロギーの反映にすぎないとされてしまう。真実は存在せず、そこにあるのはポジショントークだけである。このような知や真理の軽視はポストモダン思想に端を発しているというのが、マッキンタイアの主張である。

大橋は、ポストモダンの代表的思想家であるデリダの議論を引用し、それがポストトゥルース的な態度に何の正当性も与えないと論じる。大橋によれば、デリダの議論において真理と解釈とは常に緊張関係にあり、真理を想定することなしに解釈が現れることはないという。解釈には常に「いつになったら真理は今までと姿を変えて現れるのか、それとも現れないのか」という「不安」が付き纏うのである。

それに対して、ポストトゥルースには真理と解釈との緊張関係がないものとされる。ポストモダン思想で守られていた真理の地位は、ポストトゥルースにおいて、解釈と同じ水準へと引き下げられてしまう。ポストトゥルースは、科学が積み上げてきた漸進的な知的営為や、ポストモダン思想が尊重してきた「苦悩」を全く無力化してしまうのである。

大橋の議論は、マッキンタイアによるポストモダン理解はキメが荒く、ポストモダンから直ちにポストトゥルースが帰結するわけではない、というものである。しかしポストトゥルースへの危機感はマッキンタイア同様に持っており、ポストトゥルース社会との向き合い方も最後に論じているが、ここでは割愛する。

感想

再現性問題について

第3章の内容について、社会心理学の実験が多く引用されていたが、その多くが近年話題を集めている「再現性問題」が生じているものである。


再現性の危機(英: replication crisis, replicability crisis)とは、多くの科学実験の結果が他の研究者やその実験を行った研究者自身による後続の調査において再現することが難しい、もしくはできないという科学における方法論的な危機のことである。

Wikipedia

社会心理学の例で言えば、例えば第3章で扱われていたバックファイアー効果は、別の研究者が実験を行った際には同様の結果が出なかったことが報告されている(参照)。有名な社会心理学の実験では、往々にして裕福で白人のアメリカにいる大学生を被験者として選ばれており、彼らを対象として得られた実験結果から理論が提唱されることになる。そのため、日本や中国など国を変えたり、あるいは30代や40代などと世代を変えたりすることで、オリジナルの実験と同様の結果が出ないということが生じているのである。


こうした事情に鑑みれば、無批判にこれらの実験を参照し、人間には普遍的に動機づけされた推論のようなバイアスがあると主張するマッキンタイアの議論は、鵜呑みにしない方が良いかもしれない。だからといって、マッキンタイアが主張する認知バイアスなど人間にはなく、人間は事実を正しく捉えられているということにはならない。少しでも反論があれば元の理論を全てひっくり返すのは、まさにポストトゥルースが行う科学への冒涜に等しい。マッキンタイアの議論や再現性の危機からの教訓は、自分にはバイアスがあるかもしれないという姿勢を忘れず、自分が真理の価値を下げないよう努めることが重要だということである。

知的苦悩と知的体力

附論で出てきた知的苦悩とは、具体的には何だろうか。僕としては、自分の信念を疑い続ける姿勢のことを、知的体力と呼びたい。そしてその際に知的体力を消費せざるを得ない状況こそが、知的苦悩というものだと思う。

自分の考えに間違いが少しも含まれていない人間は存在しない。入ってくる情報や学ばなければならない情報が途方もないくらいに多い現代社会においては、誤った情報を信じてしまう確率は特に高い。大事なのは、自分が間違っているのではないかと疑い、自身の考えを相対化し続けることである。他人ではなく自分に向けることで、相対化という武器を正しく使うことができる。

この際、自分の考えを正当化してはいけないことから生じる不安、知的不安が付き纏う。この不安に対処できる技術やスタミナのことを、僕は知的体力と呼びたい。知的不安に対処する技術とは、信頼できる客観的な情報や情報ソースを見つけ、さらにそれを批判的に解釈することである。知的不安に対するスタミナとは、自分が得た情報に批判を向け続ける力である。

こうした技術を得るのに最も適しているのは、大学や大学院などの高等教育機関である。次に適しているのは、研究者が出版している論文や専門書を読むことである。反対に最も適していないのは、誰が書いているのかもわからないネットの記事やSNS上での投稿である。各メディアとの正しい付き合い方を身につけ、健全な情報氾濫ライフを送るべきである。

本書は少々専門的な話が含まれているが、ポストトゥルースという現象を多角的にかつ大局的に捉えている良書であり、現代社会を生きる全ての人にお勧めできる。

よろしければぜひ