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尊敬できる大人が減ったことについて

大学3年生くらいまでだろうか。僕の周りにいる先輩たちは皆自分の意見を持って、自分の意思で行動しているように見えた。

授業で会う人たちやサークルで会う人たち、バイト先で会う年上の先輩たちは、みんな優秀なだけでなく、楽しく過ごしているように見えた。

今はもう違う。最近会う年上の人たちはみんな、ギラギラとした感じが取れて丸くなって、面白みがなくなってしまった。

これはその人たちが変わったというよりも、多分自分が持つ人への評価の仕方が変わったからだと思う。それでは、その評価基準はどう変わったのか。

先輩たちのことをすごいと思えていた頃は、自分もそうなれるかもしれない、のような羨望の眼差しがあったのだと思う。自分が進む道のの延長線上にはその人たちがいて、彼らみたいにいつかはなりたい、みたいな。

自分の延長線上に謂わばロールモデルみたいな人がいる時は、その人のことを素直にすごいと思えるし、尊敬もできる。その人みたいになりたいと思えるし、それによって仕事だったり勉強をするやる気も湧いてくる。

けれどもこれは過去の話。今は、いわゆるすごい人みたいなのに会っても「あなたはそういう生き方なのね」「自分には真似できないかな〜」と言った感想の方が心に湧いてくる。そもそも進んでいるレールが自分と違いすぎて、すごさとか尊敬の念が湧いてこない。

だからと言って、以前はいろんな先輩に自分の未来を投影していたわけではない。むしろ、自分にはいろんな可能性があって、どの先輩像を歩むのかをワクワクしながら選んでいたような感覚だった。白紙ゆえに何色にでも塗ることのできる画用紙。

今は、きっとある程度自分に色が塗られている。けれども、その色は世界のどこにもなくて、まだ見たことがない色。どんな先輩を見ても「自分はこうではない」ということだけがわかるが、具体的に自分が何色で、どんな未来を生きていそうかが全く見えない。

そもそも、「お前はこういう奴だ」という問いにまともに答えること自体が大嫌いだから、「こうでもない、ああでもない」とか文句を言いながら、そのまま死んでいく気がする。それはそれで、自分らしくて良いのかもしれない。

否定によるアイデンティティ形成。脱構築を振りかざす人からは怒られそうだけど、残念なことに彼らほど人と協調しようという気も湧かない。少なくとも今は。

よろしければぜひ